2009年12月26日土曜日

『今できる不食総括』 21

 ギバラツを去ってからはグングン歩いた。進路はハンガリーそしてオーストリア、とアルプスを北から回ってスイスに帰ろうとだいたいのものを設定した。ハンガリーも、実にグングン歩いた。一日平均24~25km、30kg相当のバックを持って歩ける限界だ。それ以上歩くと1日2日はもっても、足、腰、肩が故障する。もうよく分かっているテンポだ。  
 
 ハンガリーに入るや民家や町が華やかになり、人々もセルビアとはまるで変わった。
 大きな通りに沿って民家が、壁のように並列しているのはセルビアと同じだが、ハンガリーから僕はずいぶんはっきりと西側世界を感じた。ギリシャを除けば実に1年ぶりの西側諸国。ハンガリーが西かどうかは議論が別れるかもしれないが、僕が感じたのはそうだった。
 ハンガリーでは特に出会いはなかった。僕の気持ちに出会いを期待しなかったというのもある。早く前に進みたかったのだ。西側世界にも興味がなかった。欲張って、スロバキアもちょっと見たいと思った僕は、ブダペストからまだ北に上がりドナウ川に沿ってちょっぴりとスロバキアに入った。その直後だ。ピーターというどかた労働者に出会った。
 辺りはうっそうと森が茂り、ちょうど寝場所を探した時に後ろから連れと2人で自転車で現れた。
 上半身は裸で、夕時のすずしい風を全身に浴びながら帰宅する、そんな風に見えた。彼には少し、アルコールが入っていたかもしれない。陽気で人懐こく話しかけてきた。

2009.1.21  
 僕はちょっと驚いていた。森の中深くに古い家にジプシーのようにモノを集めて住んでいた彼らはどことなく西側の人間とは違う。セルビア人と似ていると思った。
 そういえばハンガリー人は違うが、チェコ・スロバキア・ポーランドもセルビアと同じスラヴ人の国だ。
 この時僕は、自分は旧ユーゴのみならず「スラヴ人」と相性がいいのだろうか、と変な気づきをした。一晩だけピーターと共に過ごし、次の朝にはいつものように旅した。
 その日だったか、次の日だったか、ハンガリー人が車を止めた。  
 「乗っていくかい?」 
 彼はドイツ語を話す。  
 僕は中学校時代をドイツの現地校に通ったためドイツ語を話すが、イスタンブールを去ってからはほとんど英語とセルビア語しか使わなかった。なぜドイツ語を話すのかと思いきや、おじさんはこれからオーストリアの仕事場にハンガリーから戻るところだと言うではないか…。僕の気持ちが変わった。
 30kmほど乗せてもらうつもりだったのが、おじさんがそう来ると考えを変えてオーストリアのSt. Poeltenまで250kmほどの距離を一緒に乗せてもらうことにしたのだ。

 ここで少し当時の気持ちを説明する。  
 ギリシャにいた頃からあったヨーロッパに引き返すことの迷いは、すっきりしないままずっと持ち越していた。そしてマケドニア、コソボ、ハンガリーなどずいぶん寄り道をしてきた自分は早くスイスに戻れと思うようになっていたのだ。スイスに戻るという意識と、少し旅に時間をかけ、周辺の国を見たいという意識と、更にあまりだらだら旅はするなという新しい意識が生じた。ずいぶんと矛盾を抱えていたのだ。
 そうしてまず例がない長距離を乗せてもらえるチャンスを見つけた僕の心は、興奮したか、実にやさしいおじさんに
 「やっぱりSt.Poeltenまで乗せてもらってもいい?」
 と聞いた。
 おじさんは一人で長距離を走るのが詰まらないとも言い、感謝して乗せてもらうのは悪くない気がした。自分のそれまでの予定では、スロバキアの首都Bratislava、そしてもちろんWienという町を見たいと思っていたが、それには目をつむって、またどこか奇抜に行動してみようと思った。
 これが大失敗であった。一気に250~270km進みゲルマンの世界、完全な西側世界に突っ込んだ僕は、しばらく自分の旅を忘れるほどだった。
 着いた日の夜、興味が湧いてゴミあさりに出る。ゴミにはそれまでずっと食べられなかったようなものがたくさんあって公園で深夜に食欲に耽った。
 作りすぎて捨てたのか、グリル(鶏の照り焼き、ソーセージ等)も大量に見つかり、冷めて固くなった肉だがたいへん味わって食べた。
 翌日から見慣れないオーストリアをまるで初心者のように歩く。
 目に留まる看板や標識などがいちいち気になった。そして6日ほど経ち、大きな町Linzも手前のことだ。

 Hoferというスーパーのチェーンがある。
 日本でいう「サンワ」とか「オオザキ」という感じだろうか…。夜とある高い倉庫の下に寝場所を見つけた僕の目には煌々と照るそのオレンジとブルーラインの看板が目に入った。
 「コンテナに、あるかもしれない。」
 St.Poeltenなどで派手にゴミをあさったとはいえ、この時まではセルビア、ハンガリーから身についていたフルーツ食が続いていた。オーストリアでは気軽に取れるフルーツはセルビアより少なかったが、あまりゴミを見たいとは思わなかったのだ。
 しかしこのHoferがそんな僕を完全に覆した。
 コンテナにあったのはハム、ソーセージ、バターたっぷりの甘いパン、牛乳、ヨーグルト、コーンフレーク(2種類)、チーズ、など他に類を見ない豊かさ。賞味期限切れのものも多かったが、ただパッケージが傷ついたもの(コーンフレークがそう)、そして、賞味期限とは少し意味合いが異なる Mindestenshaltbar bis: という、賞味推奨期限とでもいうか、その期限が過ぎても食べられないわけではないものもけっこうある。

 その夜は、ブタになった。甘いものの後には塩味のもの、塩味のものの後にはまた甘いもの。そして牛乳などでまた味覚を調和して次から次へと食べたいものを食べたいように食べた。
 中にココナッツクリームの入った甘いコーンフレークは、数日期限の過ぎた牛乳と一緒に“絶妙”だった。そしてバター、砂糖のBrioche(ドイツ語:Zopf)は口の中でねちょねちょと、そのもちもち感が堪らなかった。まさに、ブタの食い方である。
 そういうことがあって間もなくPassauというところからドイツに入った僕は、ついスーパーでゴミあさりをした。もう止まらなかったのである。そして、ドイツにも入ったとなるといよいよ近づいてくるスイス。このまま帰れるだろうか。

 「不食」を目指し、一年半旅してきた者が、このみっともないブタの状態で帰れるか…。

 Passauから西に30kmか40kmのところで「NO」だと答えが出た。
 大きな進路変更の決断、7月17日のことだった。

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