2009年12月26日土曜日

『今できる不食総括』 29

2009.1.26
 (スイスの親戚のところに着いた。
 昨日、昼ごろの頃である。それからわずか1日の間に日本に帰る日が決まった。明日午前11時のチューリッヒ発だ。いよいよこの時が来た。それなりに長かった気がする。でもダラダラはしていない。程よく時が熟したという感想だ。)


 この9日間の体験はいずれ公表する当時の日記に詳しいことは預けることにしよう。ここではさらっと今思い出せる印象的な出来事について少し触れて終わりにする。
 食事を断ってから6日目か7日目のことだった。行き当たりばったりの50代くらいのカップルが50ユーロをくれたことがあった。10ユーロや20ユーロではない。わずか5分程度の交流の後にもらった50ユーロだった。
 ヘルムートと別れた時も20ユーロをもらっていた。ヘルムートを前にはまた断固と断ったのだが彼の手は僕のズボンのポケットに一枚の札を押し込んだ。よほど自分の内面は満たされていたのだろうか、ヘルムートを去ってからはお金はポケットに入っているが使わないという旅へと進歩があった。そしてこの断食中も50ユーロをもらったことでポケットには実に日本円にして1万円以上も入っていた。
 しかし断食(「不食」の実践)が起動に乗っている自分には金の魅力はない。
 誘惑が、そもそもない。

 「疲れない」・「へばらない」・「寒くない」・「雑念がない」・「達成感・『不食』の実感」・「高貴な気持ち」…  

 いったいどれほど言葉を並べたら当時の気持ちを正当に表現できるだろうか。それはまさに、「不食」の著者、山田鷹夫氏が言う『不食には食にはない歓びがある』ということ、そして『食を楽しむうちは不食の歓びはわからない』というそれだと思った。双方はまったく別の次元なのだ。

 話が逸れた。50ユーロをもらった話に戻る。そのカップルはきれいな秋晴れの日、散策を楽しむ2人組だった。僕はしばらく国道からはずれて少し自然を楽しもうと丘や森の道を、不慣れながらもスイスへの最短距離を目指して歩いていた。そのカップルは僕がバックを置いてしり餅をついて休んでいる所に自分の進行方向から現れた。
 天気が良いときは人の心も軽やかだ。
 なんでもないすれ違いの会釈からどういうわけか、「神様の人への働きかけ方」について話している自分があった。
 「神様はそう簡単には答えてくれない。僕らの心がどこまで本気か試しているんだと思う。だから時には人生もけわしく辛い。でもそここそ我慢が必要だよね。」
 などとそんなことを言い合っていたのを思い出す。
 僕の頭はいつになくクリアだった。断食6、7日目であるにも拘らず、そのとらわれのなさは過去最高だった。人と交わっても変な疑問が浮かんだりしない。「?」マークが、ない。無理が少しも無いのだ。そしていつもより顔の贅肉が落ち、目つきも軽快になっていた自分は普段とは違ったかもしれない。

 わずか5分くらいの話が終わると彼らは先へ進んでいった。僕もそれではとバックを背負ってまた歩きはじめた。50mくらいだろうか、背後から駆け足が聞こえて誰かと思ったらカップルのおばさんだった。そっと寄り添うようにして僕の手を取り、隠されたこぶしの下からは50ユーロが手に落ちた。 
 「NEIN!」
 僕は一瞬、その普通ではない行動に身を引く。でもおばさんはこう言う。
 「一晩の宿代に使ってね。」
 断れるオファーではなかった。

 『「不食」を生きる』、食べずに生きるということが高貴な気持ちを生むことは分かっていただけるだろうか。
 1年間に20kgの肉と40kgの穀類と80kgの野菜を食べていた人間がそれが必要なくなるということはそれだけ他の生物を犠牲にしなくてもよいということだ。僕はたしかにその高貴な気持ちに支えられていた。
 10月28日と29日は悪天候に見舞われ2日間動けなかった。ちょうど寒気が入って雨は最後雪にまでなった。急に歩けなくなるとそれまでの調子もさすがに崩れてどこまで寒くなるのか不安にもなった。
 初めてのアルプスのまともな冬体験ということも少なからず緊張になっていた。
 
 10月30日、断食10日目の朝は3日ぶりの運動ということもあってすこし戸惑っていたかもしれない。そしてギリシャとはまるで違った9日間の体験。その日、
 「とりあえず十分だな」
 という気がした。秋も深まっていて林檎を見かけることも少なくなっていたが、1つ遠くに林檎の木を見かけた時、なんともなく
 「食べてみようか。」
 と思った。迷いなく自然にそう思った。そして。
 バス停での休憩を兼ねて牧草地の中にあったその木まで林檎を取りに行って、バス停に戻って10日ぶりの食事をした。たしかに、うまかった。自分の口内はどことなくキュッと締まっていて、味覚神経が無くなっているような感じがしていたが、味わおうとすればおいしく食べることができた。
 適当に4個くらいのテニスボールより少し小さなサイズの林檎を取ってきたのだが、2つ食べると果肉が喉を通らなくなった。喉がまるで自分から閉じているような感じがしたのだ。残りの林檎はかんで出る果汁だけのんで果肉はもどして捨てた。

 しばらくまた歩いていって女性が車をとめSeegというところまで数キロ乗っけてくれると降ろしてくれたところにはたまたまEDEKAというスーパーがあった。
 「ちょっと楽しんじゃおうか。」
 そう思った。  
 8ユーロほど出してそのスーパーにあったもっとも惹かれるものを掻き集めた。店を出るとどこかゆったり食事ができる温かいところはないかなと思って駅へ行ってみることにた。EDEKAからはかなり急な坂を下ってゆく。
 すると駅はすぐそこにあったが、残念ながら温かい場所はおろか腰を掛けられるいすもなかった。あったのは本来休憩室になるような木の枠だけの部屋だった。仕方なくそこで食事をすることにし、地面にしり餅をついて
 「さて食事だ。」
 ということになった。多分に楽しみである。食事を楽しむことではなくて純粋に味覚は、胃は、内臓は、そして体はどう反応するか、ということだ。まずは味覚だ。

 スイスやフランスなどで見られる純白の、バターと砂糖がたっぷり入ったButterzopf(申し訳ない。日本でなんと呼んでいるか分からない)は僕の大好物で、2005年大学をやめてスイスに行った時は毎日のように食べていた。しかしこの時最初にそのパンを食べたが、味が“分からなかった。”
 林檎とは違ってこっちはこっちはおいしいという感じもしなかったのである。
 そしてその後はチョコレート、ポテトチップス、Frikadellen(冷蔵ハンバーグ食品、要調理)など次から次へと買ったものに口だけつけるように食事をしたが、全体的に食欲を解放できなかった。純粋に食事を楽しめなかったのである。胃も縮小していたためかあまり食べられなかった。

 そしてまた歩き出した。
 もと来た道に差しかかった時である。動悸、息切れがしてきて、とても歩けなくなってしまった。坂の途中で民家の車庫の前で倒れこんでしまった。通りがかりの人に声を掛けられる。まるで1kmくらいリュックをしょって走ってきたような振りでやり過ごすしかなかった。心臓の鼓動が不安になるくらい激しくなった。それが収まるまで安静にして、よくなってきたらまた坂を登った。
 分からない。150~200mの坂を登るのに2回休憩したかもしれない。


2009.1.27  
 (昨日は中途半端なところで終わってしまった。
  スイスの親戚のもとにたどり着き、親戚一人ひとりに多大な神経を配っていたためだ。今はロンドンHeathrow空港 …と言っている間に搭乗受付が始まり、搭乗した。
 11時間で日本に到着だ。
 前に座るおやじが落ち着きなく居心地悪そうにしている。背もたれを傾け、寄りかかると、イスが壊れているのかグンと目の前に迫ってくる。
 「おやじっ。そんな寄りかかったり体を起こしたりしないでくれ、気が散るから!」
 と不満を覚えるが僕はどこまで文句が言える立場だろうか。実は飛行機に乗れるだけたいへん幸せな人間なのではないか。荷物室にしか入れないとしても有難く乗せてもらうだろう、もしそれしか日本に帰る手段がないとすれば。
 さて。11時間後には日本という世界に突っ込む。
 日本人の中での生活が始まる。心してゆけ!ともひろよ! )

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