絶望の淵
◆苦悩深まるだけの大学時代
それは八王子の緑豊かな恵まれた環境にあるキャンパス。名の知れた大学だったが、僕のキャンパスライフはくやしくなるほど空しかった。
消極的な人間ならまだしもやること尽くしてそうなのだから、はっきり言ってあって然りの苦悩だったのだなと今は思う。
大学に入って間もなく僕は初めての恋人ができたのだが、また彼女が自分とは対極にあるような人間で、この人が入学早々僕を芯から変えていった。この人との出会いが僕の大学生活を大方方向付けたとみてもまちがっていないかもしれない。
粗っぽく言えば僕はスイス人の母に育てられた海外育ちの世間知らず。
彼女の方は2歳年上で、日本の若者文化・流行を心得たお嬢様。
一体共有できるものは何かあるのかと疑うカップルだったと思うが、人にはお似合いのカップルだと言われた。
彼女が僕の感覚を変えた。しかし違いのあまり恋は数ヶ月ののちに破局。
彼女と別れてから数ヵ月後、大学1年の終わりに僕は、父と大喧嘩をした。父に対してずっと溜まっていた鬱憤が、彼女の見せてくれた世界に後押しされて確信を得、とうとう発火したのだ。その喧嘩の晩から僕は家を出て一人暮らしが始まった。
大学一年の春休みに多摩市にアパートを借り、生活資金のためにアルバイトも増やした。しかしそうでなくても“かわっていた”僕は早くも2年次夏休み前にお手上げになった。やむなく休学の措置をとり、自分の時間を優先。
それから次の年(同期は3年次となる年)まではスイスの親戚や、小学校を過ごしたマレーシアを訪れたりして自分の再発見を試みた。大学から始めた家庭教師のアルバイトは調子がよくて、レベルアップを図って塾講師をはじめたのもこの休学中のことだった。
アパートは多摩市の月額41,000円から日野市の25,000円に変えたりもした。休学だったが、実に色んなことをしていたのである。
2003年の復学からはだがアルバイトや自分の思索以外はちっともはかどらなかった。塾講師という仕事ができたおかげで経済面は問題なくなったのだが、ただでさえ時間の必要なキャンパスライフに僕の生活はついていかなかった。2年次まではなんとか単位を収めるが、3年次には急激に大学に行くことが嫌になった。
塾講師としての成功体験の自信もあり、ただ大学の学費を出すだけのためにあくせく働くことに疑問が生まれたのである。これだったら大学なんてやめて塾講師に専念した方がはるかに生産的だ、そんなことを思っていた。
2年次の終わり、2004年の1月に自然農の福岡正信という人の本を読み、自分の生きている高度発展社会とそのシステム(経済活動)に根本的な疑問を抱く。別れた彼女とは学部が一緒でときどき見かけたり、大学の仲間と一緒に何かする時間も満足に取れないような自分の生活が、なんだか間違っているような気もした。
そして、僕は、厳格な宗教と共に育っているのだが、この3年次の疑問は結局は人生全体からくる疑問に直結していた。
「なんで大学にいくのか。」
「なんで社会のレールに乗らなければまずいのだろう?」
「一体、絶対正しいことなんて、あるのか?」、云々。
大学に入って出会った彼女によって新しい眼が開き、父との大喧嘩をもって、うぶながら全力で自分らしく生きようとしていた僕は、究極的な疑問を扱わなければならなくなった。
他人の真似をしたり、社会の流れに沿っていくのではなくて、自分で「生きるとは何か」、その辺りを定義しなおさなければならなかったのである。
そんな自分は、ある時点から大学に行く意味を完全に失った。
試験前に2、3時間予習をすれば単位がとれるような教科も、まるでアレルギーでもあるかのように手が付かなかった。
「ほら、もう大して単位は残ってないんだからこの試験中だけ我慢しな。」
という説得もまったく効果がなかった。そして3年次、必修科目まで単位が取れなくなった。この分だと6年卒業の可能性も出てくるぞ?…冷汗。
そんな中、勤めていた塾から急に給料が出なくなった。1ヶ月…2ヶ月…そして3ヶ月。
僕は退学を決意した。迷いもあったが、なにより、大学にいることに限界に達していたのである。2004年、11月のことだった。
◆「不食」との出会い
(さて、どんどん書き進めていきたいと思う。
昨日思いついた題目(◆印)の数は60を越えるから、のんびり書いていては一向に終わらない。これまで何度もあったように、途中でめんどくさくなったり意識が変わったりして中断するのが落ちだ。多少文章が粗くなってもいいから確かに書き進んでいくことで効力感と達成感も出てきてくれることを願う。)
まるで生理的に大学にいることができなくなった僕は、2004年11月、退学を決意した。父には
「太いものには巻かれろということができないんだね」
などと言われたが、どうしようもなかった。自分には大学に残っていて良いことなどほとんど想像できなかった。強いていえば
「大卒の肩書きがあれば後々がちがう」
ということだが、そんなある意味で保険をかけるようなのんびりした事態ではなかったのである。
だったら不安はあるが、自分の根本的な疑問に対して正面から向き合っていった方が、いいんじゃないか。その方が内面的な充足には早くつながる、そう思った。そうして大学に行かなくなり、予定のスイス引越しへ向けてアルバイトをやめて、準備を始めた。
山田鷹夫氏の著作「不食(ふしょく)」に出会ったのはその矢先だった。実家に帰っていたとある日の朝、父が新聞を見ながらぼそっとこう言った:
「へぇ、こんな人も出てきているんだねぇ。」
父が周りに聞いてもらいたいかのように思わしぶりな言い方をすることはそんななくて、僕も
「なんだ!?」
と父のところに見に行った。
『3年間、不食の男がここにいる ―人は食べなくても生きられる―「不食」』
が目に飛び込んできた瞬間だった。
「不食」につながる「断食」という概念も僕には疎遠ではなかった。高校3年のとき受験が終わると72時間断食(時間的3日)というのをやったし、幼い頃は父が1週間くらい断食道場に行ってぺたんこの腹で帰ってきたことがあった。
更にはそういった父の食生活に対する強い関心が、少なからず家族の関心にもなっていたのである。例えば、上の兄弟が小学校の頃は、先生に断って弁当を持たされていた。周りは給食の中、自分と兄はマクロバイオティック健康法という厳しい食事制限による玄米や野菜だけのお弁当を持っていっていたのだ。父は若いときに病気で手術したことがあってそれが理由だったと聞いている。
ともかくそうして僕にはそれなりの下地があったのだ。興味深いことに、山田氏自身も触れているが、大阪にある甲田医院というところから、断食療法を施した患者さんに、野菜ジュース一杯で元気に生活する人がいることも、僕は父を通じて聞いていた。15、6の頃だったと思うが、驚嘆したのは言うまでもない。
アルバイトがなくなり、大学がなくなり、スイスに行くとは言っても明確な意識はできていなかった空っぽの僕の頭に入ってきたのはまさにこの「不食」という思想だった。当時は
「これだ!これが次に僕がやるべきことだ。」
などと受けとめてはいない。結果的に半年、1年と時間がたつにつれそう思わされていったのだが、当初はすごく気になるが興味の範囲を出てはいなかった。「不食」が人生の次なる課題だなんて、大きすぎてとてもじゃないが思えなかっただろう。
そんなわけで、僕はただ大学時代に溜まった貯金を使ってスイスに越して、しばらくスイスに住むという方向で将来を考えていた。住んだことのないスイスで仕事を探し、生活することで、自分の半分の血がくる国を知れたらいいなとそんな普通の考えであった。著書「不食」は自分の潜在意識に否定しがたく語りかけていたことは事実だが、まちがっても人生のメインテーマになんぞできなかった。それどころか本に出会ってからの5、6ヶ月は山田氏の思想を吟味することで精一杯で一日たりとも断食していない気がする。
最初に断食をしたのは、日本帰国間際、スイスのアパートで断食をして、貧血になり、石の地面で頭を打った経験が思い浮かぶ。それくらい考え方だけでも吸収するのに時間がかかる思想なのだ。はっきり言って、それなりの安定した人生を送っている人間には不食はキチガイもいいとこだろう。
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