◆あとがなき相模原 ’06 4月~’07 1月
京都から相模原に戻る時、60万円くらいの貯金があった。京都の、それなりにちゃんとした経済面で来た時から20万円くらい貯金が増えていたのだ。しかし相模原に戻ると決めた時、こんな発想が起きた。
「京都駅で60万円をバラまこうか。」 改札前あたりで、パーンッと60枚の一万円札を花びらのように散らして去ってゆくそんな自分を思い描いた。
【金だって、本当はいらないんだ。】
どれだけくるっていたかわかると思う。
でも、正直な気持ちだった。金も手放したら何か見つかるか。そんなようなことを思うようになっていた。結局その60万は、相模原で生活を始めるための20万円を残してまだ京都にいる間にどぶに捨てるように消費した。妹が2回に分けて京都に遊びに来た時や、普段以上に太っ腹に外食しに行ったり、観光をしたりして使った。
スイスに次ぐ、京都の失敗。自分はますますみじめになり、自尊心もひどく傷ついていった。そのとき、ぼくはまもなく24だったが、20歳からの4年間親には基本的に反抗的で困らせていたにもかかわらず、この時は親の言うことを聞かざるを得ないような弱い状況(立場)になっていたのだ。友人も失い、貯金200万も消え、大学時代の塾講師の栄光はすべて崩れ落ちていた。ぬけがらを生きているような感覚と、時に内から出てくる抑え難いいかりのような感情。あるときは親に申し訳なく思い、ひどく自分を卑下するが、そうかと思ったら親に対して憎しみを抱く自分がいる...。そして頭から離れない「不食」思想。まるでそれは悪い呪いのようにも感じられた。もう何が何だか分からなくなっていった。
相模原に戻ったのが2006年の4月。一年以上家族と離れていたため、その時はちょくちょく実家に顔をだしたり、実家の行事(親は寄宿生活塾というものを営んでいる)に参加したりした。過去は忘れ、これからを考えようと前向きになれた時期もあったが、つかの間だった。
2006年9月、マレーシア行きの航空チケットを買った。日本を脱出するためである。もう死んでもいいと本当に思っていたが、もとカトリックの母親の影響もあってか自殺は間違いだと思っていた。でも、死にたい。ビルから飛び下りるとか公衆を汚すような行為は有り得なかったが、山の斜面を飛び下りるくらいなら考えられた。でも!それをする前に自分をこの日本から追放してみよう、自分で自分を殺す前に存在するだけさせてみよう、この日本でないどこかに。
言葉にすればそんなような思惑から買ったチケットだった。相模原出たさに待ちきれなくてフライトの3日前くらいに早くも出発した。多摩を過ぎ、調布に来ると大学で出会った彼女のことを思い出した。彼女は調布に住んでいたのである。アパートを訪ねた。しかし人は出てこない。仕方なく成田方面に東、東と歩いていった。途中甲州街道をずっとゆくと、カラオケボックスがあり、休憩欲しさに一人カラオケに入った。
「これも最後のカラオケかな...」
そんなことを思いながら、好きな曲を思い浮かぶままにかけては、歌に心をゆだねた。一時間もたつと歌にも飽きた。
「電話してみよう。」 どこからともなく彼女の携帯の電話番号が思い浮かん出きて、公衆電話から掛けてみた。すると・・・、
「もしもし」と落ち着いた元彼女の声。 「まだ(番号)変わっていない!!」
臆病な自分は声が出なかった。タイミングを完全に逃して、卑怯にも電話を切った。
東、東へ歩き、朝がやってきてはくたびれて横になった。つかの間一睡し、腹を満たすために定食屋やKFCに入っては、無理にも食べた。そして次の夜、人の来なそうなアパートの非常階段で一睡すると、目が覚めた時、「もうやるしかない。」と、明瞭とした意識で、元彼女に電話しようと思った。そして前夜の卑怯な無言電話は自分だったと打ち明け、2年ぶりくらいに彼女と話した。
夜遅かったが彼女は会ってくれた。勤めがあるにもかかわらず夜中3時ごろまで付き合ってくれた。 フライト出発前日の早朝、元彼女と別れては東へ続けたが、そこで気持ちがゆらぎ、相模原に戻ることにした。彼女に会ったことが原因だが、そのときどんな意識で気持ちが変わったのかはよく覚えていない。
翌日、相模原に戻ってからは「もう一度やり直そう。彼女のために生きよう。」そんな思いつきの動機に任せて、彼女にもそれを報告。それには彼女、冷静に、「どうして?」と。言葉がなかった。適当に流してまた連絡すると言った僕だが、その次の電話はなかった。
10月、11月、僕はまた家族と連絡を断って自活を図った。うまくいけば、元彼女に連絡する気もあった。しかしそのときの自分の経済は携帯の料金も払えないような、毎月なんとか乗り切るような有様。健康保険、年金などはもう何ヶ月も滞納していた。そしてもうさすがにきていた限界。
派遣会社で次から次へと仕事を変えた挙句には、ついに力尽きた。そして気がおかしくなった。専門家に診てもらったわけじゃないから分からないが、自分では精神が分裂的に活動するのが分かった。このまま行くと一人の人間として統制がとれなくなるのが分かった。
警察署に駆け込み、
「この手が何をするか分からないから僕を拘束してくれ!」
と言った。
警察は何もできないと分かると、僕の足は実家へ向かい、母親を前に爆発した。次にはそれに気づいて2階から降りてきた父親に怒鳴った。
数時間の後には心は少し静まり、それから僕は親のすねをかじる生活が始まった。2006年12月のことで日本を出る2ヶ月前のことだ。
親に生活資金のお金と食べ物などをもらうようになってから、キレることはなかったが、僕は完全な廃人になっていた。自分の中からまるでエネルギーが出てこない。何をやっても駄目なのだ。これじゃぁ生きていても他人の迷惑になるだけだな。その実感はゆるぎないものだった。
何もなかったかのように時間だけ進み、2007年が明けた。1日2日派遣会社のアルバイトスタッフをするが、続かない。
1月の10日頃だろうか、アパートの家賃や滞納している料金のために父が10万円をくれた。その時、次10万円をもらったら航空チケットを買うぞ、と思った。そして1月の20日頃か、父はまた10万円をくれた。僕はそれをスイス行きの片道切符に充てた。
「日本よ、永遠にさようなら。」
(思い浮かぶままに、書き殴った。言葉選びなどが不適切なところ、無駄に話の長いところ、短すぎるところ、色々あって読みづらいかもしれない。でも、下手に格好つけるより素の自分が出てよいような気がすることから、あえてこのままで行こうと思う。さて。なんだかんだこの廃屋に来てからもう5日目になる。昨日からけっこうな執筆量のため今は過去の自分に戻っているような気がする。ここはフランスであることも忘れて。
特に昨日書いた部分はもっともきわどいところだ。はっきり言ってあまり明確に思い出したくない。ここは町も離れていることから、必然的に食べ物はなく、断食になっている。今晩くらいは水分補給のためにまた町まで出ようかと思っているが、場合によってはその時、パンでも食べるかもしれない。今はこの執筆に専念することに夢中である。つかれたのでしばらく休憩したいと思う。また)
2009.1.7
(昨日は、完全に日本帰国の意思が固まってからは色々なことがあった。ちょっと脱線となるが、昨日の日記を丸々ここに載せたいと思う。もう何ヶ月もの間思慮に思慮を重ねて考えてきた日本帰国の意思を固めた。しかし、これは簡単な問題ではないので、とても慎重に、十分な心構えを持って行いたいと思う。今日からスイスに引き返す。
日本に帰る目的は実にシンプルだ。
・家族との再会を果たすこと。祖母などには元気な姿をみせてあげたい。
・旅に出る前に負うた借金の、もっとも重要と思われるものを“返済”すること。
今回スイスからのフライト代を含めると、その額は最大30万円。短期アルバイトに従事してそのお金を作る。この2つのことをするために、旅は一度、「不食」との向き合いも置いておくことに決めた。果たしたら、再びフリーになる。)
●以下 2009.1.6 の日記(全部)
【 グーテンモルゲン。1月6日。まだ夜明け前だがろうそくをつけて執筆を始めた。昨日は丸1日を書くことに充てたため、動かず、飲まず食わずで終わった。今日も書く気は十分ある。ひょっとするとまた丸1日使うかもしれない。体調はここ数日間の少食と断食で上半身が特に軽快。眼の見え方もやはり格別だ。寒さもなんとかなっており、この調子だとまだここに居そうだ。さて執筆を続けよう、さっそく。/
昼まで執筆。熱くなりすぎたかもしれない。一気に書きすぎたかもしれない。内容が偏ってしまった気配がある。その内面的アンバランスのせいか、疲れて一睡したとき、とある爆発音がして不安になった。急に出ることを決意。
そして出発するぞという時、Roanne方面に変更。Vichyではなく。そして500メートルほど歩いてだろうか。
何度かその、N7という主要道は歩いているので知っていたが、とある民家の端にある犬小屋の犬が例によってほえ出した。
「ああ、今回は見つかってしまったか。」
前回町に出た時は帰りしかそこの犬には気づかれなかった。通り過ぎるか過ぎないかのところでほとんどこちらが気づかないような小さな小さなかわいい子犬が、道路を渡って、自分の足元まできてワンワンとほえた。
ぴょんぴょんとボールのように跳ねながら、チビながらも懸命に僕を威嚇する。でもこちらはもう通り過ぎるところだった。
ブォーン…。
にぶい重低音を立てて前からはトレーラーが来る。んっ?!子犬は道路の僕の側から小屋の方へ戻っていく。まさかな…。
トレーラーは警戒してか大幅に左に逸れる。子犬はぴょんぴょんとすばやく反対車線へ越えてゆくように見えたが… ぼやけた視界ながらもその瞬間をみた。
ふしゃー
何千度のマグマに石ころを投げたような、熱したフライパンに水を垂らしたような感触で、子犬は完璧な下敷きとなった。勢いに任せて走り続けるトレーラーの後には、もわもわと水蒸気が、形もなくなった子犬の体全体から盛んに天に昇っていく。-3℃の
中断 無駄にはしないぞお前の命。】
僕が今から日本に帰るぞと決断していなければ、子犬はこうはならなかった。その晩にはジュリアーという25歳の青年との出会いもあった。
「無駄にはしない。おまえの命。無駄にはしない。」
内容に戻りたいと思う。人に旅の話をすれば、「自分が変わったでしょう」とか「もう死にたいとは思わなくなった?」というようなことを聞かれることがある。正直に言うと、2年前の絶望の淵の感覚はなくなったわけではない。それは僕にとって重病の後に残る後遺症のようなもので、環境などある程度の条件がそろうと再発生するのだ。
だから僕は人にはこう返すことにしている。「新しい自分を発見した」と。「今はその新しい自分を生きているから大丈夫になったのだ。」と。今回日本に帰ることには、だからリスクがあるというのが僕の実直な感想だ。だから、楽しみという単純な気持ちじゃあないのだ。
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