◆ISTANBUL ― ツリー・オブ・ライフでの2ヵ月―
また予定よりも早く宿を訪ねた僕は、
「この大都会では寝る場所が見つからなくて大変なので早目に来てしまいました。管理人やりたいと思います。見習い早められますか。」
というようにお願いした。毎日なんとなく野宿しながら2500km歩いてきた人間が不意に生じた7日間という待ち時間に耐えられなかった。もっと正直に宿に着いたその日からでも管理人をやりたい意思を伝えるべきだったかもしれない。そして、なによりイスタンブールは急な坂道が多く、歩いても歩いても町が終わらないので不慣れのトルコということもあって疲弊しきってしまったのだ。
訳を伝えると当時の管理人だったかおるさん(43)はこの一文無しの異質な旅人に大変親切に対応してくれた。正直自分のような人間が簡単に見習いをさせてもらえるとは思っていなかった。かおるさんは早速宿のオーナーと連絡を取ってくれ、僕はその日から宿に寝泊りさせてもらえることになったのだ。 信じられなかった。自分の人生に起きる物事の展開が理解できなかった。
僕はどうしてもその宿で働きたいというわけではなかった。無銭の旅人がそういう態度を取ることは厚かましくて失礼ですらあるし、僕は再び日本人と濃厚に交わるのはまずいかもしれないという懸念があったのだ。
でもブルガリアでミチさんとばったり出会い宿のことを聞かされたことは偶然だとは思えず、事の成り行きにはできる限り従うようにしようと思っていた。そして宿ではすぐ見習いをさせてもらえるという展開になったことがほとんど僕を混乱させる。
宿に泊まりだして3日くらいだろうか、12月9日頃、僕は日本の家族に4ヶ月ぶりにEメールによる連絡を入れた。その前はセルビアのビェリッチ農場から居場所だけ伝える30秒くらいの冷たい電話。その前は、スイスである。
だからほとんど連絡をせずに居たのだが、日本人宿に来て見習いが決まるや家族と連絡を取る気になった。
「家族と連絡を取ることがよいかどうかということは僕にも分かりませんが、…」
と、父宛のEメールの冒頭に付した。だがこれに対して父は、僕が無事元気にやっていることを喜ぶ、その心が伝わってくる返事をくれた。それ以前の父とのやり取りはまず心は通わなかった。
自分の人生に何かが起こり始めている。僕はまだ死なない。
第二の人生を与えられたかのような感覚があった。しかしその人生に関しては右も左も分からない。
一体、自分はこれから何をすればよいのだ??
「不食の更なる追究か?」
それともここツリー・オブ・ライフでの日本人旅行客への奉仕か?そしてそれによってできるお金で日本行きの航空チケットを買い、家族と本来はないはずの再会を果たすこと、だろうか?
…
でもそれもそれだけじゃない気がした。
スイスからイスタンブールまで無銭徒歩という特異な旅をしてきた実績と、なによりここで人生が終わらないという強烈なインパクト。
よく分からないのだが、それだけじゃない。
「それが正しく見えてくるように、今は今の目の前のことに全力で向き合おう。」
そうして始まった日本人宿の管理人という仕事の見習いだった。管理人になったら一日7ユーロの給料が発生することになっていた。
10ヶ月ぶりにまた身を浸らせることになった日本語と、その精神。見習い期間中にも毎日お客さんの出入りがあり朝から晩まで日本人旅行客と交わった。彼らが鏡となって自分の像が見えてきた。いったい自分は何をして来たのか。それは正しかったか、間違っていたか…。
細かい感情が扱える母国語を使うことによってそれまでの10ヶ月を振り返ることができた。そして、自分にとって日本とは何なのか考えずにはいられなかった。ある意味で大変貴重な時間を過ごした僕だったが、いざ始まった管理人という仕事はまるで楽ではなかった。仕事の内容ではない。客とのやりくりの方だ。
僕のことを心配して年末まで面倒を見てくれたかおるさんがいなくなると僕は新しい客がくる度に振り回されるような管理人になった。僕がいろいろな面で未熟だったのは確かだ。しかし、来るお客さんには残念ながらそれを面白おかしく観察したりあら捜しをするような人がいた。管理人としての権限というものは十分ないことも多かった。
そんな中で僕はただ周りに合わせていった。給料は仕事の多さのわりに安すぎる上に、休日もない。管理人1人が最大20名のお客さんを管理するという点もこの宿特有で、そこではそれなりの「テクニック」が必要だった。お客さんに助けてもらう必要も出てくる。お客さんと息の合う管理人の勝ちなのだ。
だが自分がしてきた非常識な旅といい、非日本人の資質といい、僕はぺこぺことお客さんの言うままに動くしか始めは分からなかった。リーダー格のお客さんが来れば、その人に全体的な判断を任せてしまう。その人が去っていったら別のお客さんが言うとおりにやってみる。まぁそれでも宿が、危険なく、回っていればいいかなと僕は思っていた。
経験はおのずと付いてくる、と思って。お金が手に入り、久しぶりに買いたいものが買える生活はよかったし、色んなお客さんと知り合え、話が聞けるのもよかったのだ。
多少問題と意識していたのは「たばこ」で、セルビアに行ってから味を占めた。僕は休憩の度にたばこに手を出す癖ができた。もともと喘息持ちで自分の肺が敏感なのは知っていたのだが…。
今現在(2009.1月)僕のミクシィの仲間というのはほとんどがこの2007年12月、2008年1月の2ヵ月に知り合った人達だ。僕が「ミクシィ」を知ったのも日本人宿に来てからで、はじめは管理人をする上でお客さんなどに自分のことを知ってもらう手段として有効だと思って始めた。それが今では別の意味を意識するようになっているが。
(久しぶりに近況報告をしたいと思う。前回のまともな報告は1月9日のLyonを出た次の日だったと思う。今日は1月14日、場所はPontarlier30km手前、とある農業器械倉庫に入っている。9日からは歩かないことにスイスも来ない、と進むことに専念してきた。早く日本に帰りたいと思っている。
ここまでLyonから5日とはすごくハイペースなのだが、実際に歩いている距離は普通で、ただ不思議とこの3日、4日人が車を止めてくれたため、70kmくらいは車を使った。
「1月8日」の変調はだいぶ収まったが日本帰国を前にした自分には相変わらず無数の思案が湧いてくる。日本に帰ってすることは大したことじゃないのに、普通の海外旅行ではなかっただけにインパクトが違う。
想像以上に早くスイスに着きそうだが、北に上がってきて気候が一層厳しくなった。Lyonまではマイナス2、3℃だったのが、Lyonを出てからは日々マイナス7、8℃になり(朝)、今日は雪も降り出した。今朝はこの倉庫で執筆を進めてから出発しようと思っていたが、この分だと外には出ない方がいいかもしれない。やむ終えず待機中というわけだ。
ここからスイスの親戚のもとまでは200kmくらいだろうか。早ければ、10日で着ける。親戚のもとで親の用意してくれたお金をもらってからは5日後くらいには飛びたてるだろうか…。いざ日本に帰ると決めると、1日普段の倍の40km進んでも、早い気がしない。早く、今回の帰国決断の目的、「借金返済」に取りかかりたいのだ。時間の経ち方が旅とは変わった。
Lyonを出てからは食事を取っている。断食を進めながらスイスに帰ろうかという意識もあったが、ただでさえ挑戦である日本帰国を前に断食の進展による緊張まで要らないことから食べるようにしている。まだ僕も食べている方が精神は落ち着くのだ。自分は何でもない普通の人間でいられる点が安堵となる。断食が10日、2週間と進んでくると、もはや自分は凡人ではないとの意識が強く出てくる。それは少なからず緊張にもつながり、日本帰国を邪魔しかねない。
Lyonを出てから家族や、一緒に旅をしようと話していたスイスの知人、おばなどに手紙を出した。皆に日本帰国の意思を表明。一緒に旅をしようと話していた知人とは、スイスに入ったら一度連絡を取る。場合によっては彼と、スイス国内を少し歩いてから日本へ帰国する。そんなところである。)
管理人をすることで溜まったお金は2月の出発までにほとんど使い果たした。宿に必要な修理などのために道具やドリルを買った。管理人になって間もなくやめることになったのは管理人に興味がある女性が声を掛けてきたからだ。朝から晩まで日本人とばかり関わって僕はトルコを旅したい気持ちや、一人になりたい気持ちがあったため女性と少なくとも一時交代をすることにした。
しかしこの交代は結局完全な交代となった。2月5日をもって僕は一度観光ビザをリセットするためにも、再びブルガリア方面、Edirneを目指して歩いた。しかし今回のトルコ全部で一体どれだけ歩いただろう…。
50kmがいいところだ。イスタンブールを発つや否や次から次へと出会いがあり、食事を与えられ、チャイやビスケットを出され、泊めさせられ…。まともな家を持たない人やガソリンスタンドや、ウラシュというところではインターネットカフェで泊まったりした。そして去るときには大体乗り物を手配された。イスタンブールを離れた時から旅Ⅲが始まった。
管理人をしている間にはちょくちょくアメリカ人宣教師との交流もあった。初めて日本人宿を訪ねた日、午後にガラタ橋というところのベンチで出会ったアメリカ人だが、僕の旅に興味を持って仲間に加えたいようだった。宿では客の相手で十分忙しいのに、この宣教師達の相手もなおざりにできず、日本語の感覚と英語の感覚がもはや使い分けられない自分があった。
彼らに一冊、新約聖書をもらった。やっとイスラームに来たと喜び、定時に流れるコーランのエクスタシーに浸りながらも、僕がトルコで交わった人々は日本人とアメリカ人、という結末。トルコ語は勉強したくてもその余裕がなかった。またトルコには行きたい。
スイスを出た当初「不食」と向き合いにいいだろうと思っていた所に、イランの山中、がある。イランとも辺境となれば場所が場所だけに断食も進む気がしたのだ。しかしイスタンブールに来るや家族と連絡を取ったり、日本人の旅行者と印象的な時間を過ごしている間に、それより東へ進むことによって命を危険にさらすのはやめようという気持ちになった。そして心のどこかではまだ好き勝手している自分の、家族に対する申し訳なさなどもあった。
「いつまでも歩いてないで、早く『不食』と決着をつけろよ!」
と。
そうして妥協策だろうか、もう一度スイスまで戻ることに決めたのである。管理人をすることで溜まるお金でイスタンブールから直行で日本まで飛ぶことも考えたが、急遽管理人をやめることになったため、叶わなくなった。
急に管理人をやめることになった時は少し複雑な気持ちだった。ツリー・オブ・ライフとの出会いはただならぬ気がしていたからだ。しかし日本人旅行客の相手で苦労し、たばこに溺れ、食事との向き合いも狂っていた自分にはそれで良かったのかもしれない。
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