◆セルビア農村での3ヶ月
運命の出会いはセルビアに入って間もなく起こった。
夜が来て、とある村を通り過ぎたとき、サッカーグラウンドの屋根つきベンチが目に入った。僕にはテントがない。それまでどういうところで寝てきたかというと、なにかしらの建造物の屋根の下だ。初めの頃は星空の下で寝たこともあったが朝露を経験してからか、なんでもいいから雨は当たらない場所にヨガマット(日本から持ってきていたもの)を敷いて、ジャケットか何かはおって眠っていた。イタリアでは工事現場が多かったが、旧ユーゴ圏からは戦争で破壊された民家などがそのまま残っていて、ほとんどがそこに入って眠った。
夏だったので寒さの心配はない。あったのは蚊の襲撃だが、それには苦労したのを覚えている。蚊に刺されないようにと長袖など着ると、暑くてかなわない。かといって半袖ではかゆくて眠れない。顔には道端かどこかで拾ったビニール製の網を巻いたりした。
ともかくそんなわけでサッカーグラウンドのベンチまで足を運ぶと150mくらいだろうか、正面に公園があって村の子供たちが元気にがやがややっている。遠くからはリフレクターの光がこちらにも当たっていて、近くに人はいないがどうもそのまま寝支度できる気がしなかった。
仕方がなくなってやむ終えず、もっとも近くにいた10代半ばの女の子たちに
「英語できる?」
と話し掛けてみた。「No.」と返事。
たしか水か何かの場所を聞こうとしていたのだが、Noと言われては別の人を探すしかなくなって、とうとうがやがややっている子供たちの中に突っ込んでいく羽目になった。
そして怪しまれて変な人間に目をつけられるのはマズイと思って仲良く仲良く…と思っていると、とうとうそこの子供たち20~30人全体でかくれんぼや、僕の紹介で泥警(けいどろ?)をやったりして夜遅くまで子供達と遊んだ。
「もう行かなきゃ。」と、なんとか子供たちを説得すると、いざ出発というところで今度は少し大きめの十代半ばの少年達にお茶を誘われた。
「いや~、でももう遅いから…」
と遠慮するが、向こうも引かない。とうとう
「じゃあ一杯ね」
という感じで今度は喫茶店に入った。
そこにいた4人くらいの少年達の中心的な存在がアレクサンダー(サシャ)、それから10月半ばまでお世話になる農家の息子だった。
お茶一杯どころでは済まなかった。喫茶店では村で人望の厚い力持ち、ドラジャ(25)とも出会い、向こうはサシャもドラジャも英語片言だけなのに妙に意気投合して盛り上がった。あれだけの子供達に慕われ、大人とも交わったとなれば、それだけで終わるはずがない。
とうとう夜11時か12時まで熱烈に交流した後はドラジャの家に引き取られて夜を越した。
クロアチアでも一度、夕方に声を掛けられて、英語の全く話せない主人(マリンコ)の家に泊めさせてもらって、村の子供達とあらゆる遊びをしたことがあったが、この時は規模が違った。そしてなによりサシャと気の合った僕はそれから1週間もの間、サシャやドラジャと村のいろんなことを見せてもらって過ごした。
そして当然、他の何人かの村人とも知り合った。この間にサシャの家にも何度か泊まり、英語がほとんど話せないが、心が広くて温かい、何もかも包み込んでしまいそうなサシャのお父さん、ドラガン(39)と知り合った。
「こんな人がいたのか。」
と僕はおおげさでなく思った。形容に困る。この旅でもっとも偉大な人間との出会いはどれかといったら、僕は迷わずドラガンを挙げる。
1週間が過ぎると、さすがにパスポートの期限が迫っていたので僕はベオグラードへ向かうことにした。人たちにはまた戻ってくると約束をして。
2009.1.11
(時刻は何時だが分からない。もう夜も近いかもしれない。今日は昨日と一緒でたくさん歩いたが、まだスイスに引き返すことで手紙などあってこちらの方が進められなかった。)
農村での1週間の後はどこか気分の変わっている自分がいた。旅をする上で最も大きな問題、パスポートのことは迫ってきていたのに心はどこか前より落ち着きがあった。そして、なによりクロアチアの後半から人々と心で交流できたことがなにか否定しがたい変化を僕の中にもたらしてくれていた気がする。
農村を出て3日後くらいか、ベオグラードに着くまでにもう1つ印象的な出会いを経験した。熱い日差しも西の空に傾くころ、とある喫茶店のテラスに座るおじさんに声を掛けられた。その頃にはセルビア人は人なつこいのだと分かってきていたので、あまり目立たないように歩こうという意識があったが、この時も最初少しおっくうだった。
自分はセルビア語は話せないし、変な人にはつかまりたくなかったからである。でも十分に会話が成立する言語がないにも関わらずおじさんは僕を座らせ、ビールかジュースかおごってくれた。普通の旅人なら飲み物くらい自分で買えるからそれくらいでどうということはないのだが、僕の場合は、クロアチアの後半からの人々の恵みは非常にうれしかった。炭酸飲料なんてコーラとビールくらいしかないような国だけど、のどを通るぴりぴり甘いコーラはいつも格別だった。ビールだって、言うまでもなくである。
そういえば例の農村でサシャに喫茶店に招かれた最初の晩もビールやジュースを何本もご馳走になった。
そんなわけでおじさんと座っているところに、自分より年下の大学生、ブラニミルがやって来た。有名校を出ていてソフトエンジニアリングを学んでいる大学生だったが、英語下手ながらも熱烈に僕に話しかけてきた。やがておじさんの方は行ってしまって僕は彼と2人になったが、その異様なほどの関心はなかなか収まらない。
旅をしていて当然考えることは、そういう人物にも警戒するべきだということだが、僕には、クロアチアもそうだが、僕と接する人々がそういう変な人物だとは思えなかった。彼らには確かに純粋な心があってそれは見ていて分かるのだ。
日本やスイス、ドイツ、そしてかのマレーシアでもない心的な近づき易さが、セルビア人にはあった。それがまさに前に、僕がクロアチアから人が変わった、と言った所以だ。ブラニミルも少年のように純粋だった。
2009.1.12
本来僕にでなく女の子にそうあるのが普通な年頃だが、危害を加えられないうちはよいと思って相手していると、彼の家に招待された。家にいたのは彼のお母さんとおばあちゃん。お母さんは非常にやせていて力もなさそうだ。おばあちゃんはより普通に見えたが身体はあまり自由が利かないようだった。
家に招かれて食事を出された。大したものじゃないが、彼らにとっては大きな出資だ。普通の食べ物なんて非常に有り難く、感謝して頂いた。更には、彼のところには確か2泊したのだが、商店へ出ていって、「何が欲しい?」とチョコレートやビスケットなど指して、「これ?」、「これ?」と聞いてくる。遠慮に遠慮を重ねたが断るのがいけないくらいになった。
そして家ではベットを与えられ、代わりにブラニミルはソファーを2つ合わせてそこで眠った。隣町のディスコに僕を連れて他の若者にある機会をつくってくれたり、友達に車を出してもらってSava川(ドナウ川につながる大きな川)に水浴びに行ったりした。彼は日本が好きで、彼の白いT-シャツに“ソフトエンジニアリング”と日本語で書いてあげたりした。
それにしても彼の熱い接待にはちょっとショックを受けるくらいだった。彼は無償でそうしたいからしているのが分かるので、有り難く感謝して受け取るのだが、まるでそれは人種や国籍に上下関係があるような気配さえあったのだ。貧しい人間は富むものから何かを得るためにここまで平気で自己卑下するものなんだな、と、世の中の不平等というものに対してやるせない思いに気が沈んだ。
ニコラ・テスラーも卒業したという彼の高校の卒業写真に、ブラニミルだけ運動靴に間に合わせの洋服で映っている写真が忘れられない。旅が終わったら今一度しっかり連絡を取りたいと思っている。
ベオグラード到着がますます遅れていた僕は残りの60kmほどは急いで旅をした。ギバラツという農村の一週間に加えブラニミルとの2泊でセルビアが身近に感じられるようになっていた僕は調子もよかった。ベオグラードに着くと両替所など訪ね、金を換えてもらえる場所を探すと、きっと運もよかったのだろう、すぐに見つかりトローラー農場のルエディが言っていた価値の半分くらいにしかならなかったが、約65ユーロが手に入った。それでインターネットを訪ね、日本大使館情報を調べる。場所が分かると、同じ日だったかもう忘れたが、大使館を訪ねた。
ベオグラード市内でもこの時夜を越したのは覚えている。町で寝る場所を探すというのは大変だが、大きなビルの工事現場に入って泊まったりした。そうして大使館に赴いた僕だったが、資金不足が発覚、問題が発生した。
2002年に日本でパスポートを発行したときには10年もの旅券でも1万円だったのを覚えていたので5年用なら65ユーロで届くんじゃないかと期待していたのだが、甘かった。
5年用で80ユーロ、10年用では130ユーロもした。お金が、足りない――――。
恥ずかしくも大使館の人にそのことを打ち明けると、「親に頼んで送金してもらうしかないでしょうねぇ」と言われた。
「考えます。」
「一度失礼します。」
そう断って大使館を出た。8月5日頃のことでいよいよ正念場を迎えたという感じだった。
①親に連絡を取る、か②山などに逃げるか、どうするか。
その時には山などにひっこむような心境ではなかった。気分はとても明るかったのだ。そこで思い立ったのが、ギバラツに戻ることだ。理由はこうだ:
7月20日頃からの一週間の間にドラジャに連れられて一日仕事をしたことがあった。工事現場の雑用だが、その時に1000ディナラ(約12.5ユーロ)をもらっている。これはセルビアの一日の平均給料だが、大使館をあとにしたとき僕の頭にあったのはギバラツに戻って3日でも働ければ…!ということだった。
言葉もろくに解さないよそ者が3日働いてセルビア人と同じ額をもらおうなんて虫がよすぎる。たしかに、その通りだった。でも自分に出来ることは、できる限りを尽くしてパスポートの発行を実現することだった。無理であれば仕方なく、諦めがつくが、失効するその日までやることやらないでいたらそれこそ諦めがつかない!多少図々しいのは分かっているが、ギバラツでの人々との出会いは自然であったし、多くの村人が僕のことを歓迎してくれていた。
「一度ギバラツに戻り、事態を報告しよう。」
時間を節約するためベオグラードから列車に乗った。パスポートの失効12日前、8月9日のことだった。
村に戻った僕は一躍問題児になった。言ってみれば、スイスからセルビアまで歩いてやってきた勇ましき旅人、から、スイスから逃げ出した自己管理のできない若者へと転落していたのだ。当然、情けない事態となった自分は村人を前に恐縮した。「助けて、もらえますか?」たしかにそんな様子はあったかもしれない。
ところが驚いたのはその晩、再びサシャやドラジャ、その他友達になった若者達に例の喫茶店で問題を明確に告白すると、彼らは全く問題視しなかったことだ。
「ん?」と顔色を変えるものが一人もいなかった。
一人もいないどころかその晩、僕らは隣町まで出て行ってビールや煙草に耽って、談笑して、最後には高くて普通は買えないセルビアのハンバーガー、「ピエスカヴィツァ」を買って村に帰った。
「まだ余っているやつ、君が食べな。」
ポンッと、どうしようもない英語で、心の言葉でそう言って、ずっしりと重いハンバーガーを渡してくれたのが忘れられない。
僕は何がなんだか分からなくなっていった。まるで子供のように彼らについていった。
ドラジャの手配もあって8月12日頃から3日間、僕は墓掘りのバイトを手伝った。3人で2m四方、深さ1.5mほどの穴を掘る。ショベルカーなど日本で当たり前に見られる器械のないセルビアでは、まだまだ人の手が仕事をこなす。
土は粘土質で固く、真夏の太陽もきつかった。
3日後には2400ディナラ(30ユーロ)だっただろうかお金が手に入り、どうにか5年旅券には手が届く額が出来た。パスポート失効8月21日も近くなると、泊まらせてもらっていたドラガンの農場で、20日にベオグラードに行きたいと思います、と予定を告げた。その時だった。
まだ当時はあまり交流していなかったサシャのお父さん、ドラガンは家の奥に入っていって、出てくるとポンと50ユーロ札を手渡してくれた…。
なんでもなく、だ。
ただにっこりとほほえみながら。
8月20日僕は朝早くギバラツを発って列車に揺れて大使館を再訪問した。
「10年用旅券をお願いします。」
写真は前回ベオグラードに着いた時に撮ってある。
「すぐにできますよ。午後x時以降であれば…。」
後日また取りに来ることくらい覚悟していた僕は有り難くまた町へ戻って時間をつぶし、取りに行くとその日のうちにもドラガンに新しい旅券を見せることができた。それを見て一緒に喜んでくれたドラガンはこう言った:
「Tome, stay, go, you say.」(ここに居たければ居ていいよ。旅を続けたければ続けな。)
僕はこの有り難き言葉の意味を正当に理解しなかった。理解できなかったのだ。ドラガンが僕に無償の心で判断の自由を与えてくれていたことを、僕は信じることができなかった。僕はこのドラガンという男の信じ難い厚意に対してお返しをしなければすまないと感じてやまなかったのだ。だから僕はその時から、衣食住の替わりに毎日3回の牛舎の掃除や収穫のお手伝いをして、そのビェリッチ農場に残った。
日記帳のカレンダー8月21日に自分で書き込んだ髑髏(どくろ)のマークが、消えた。居たければ、あと10年海外にいられる。日本を離れていられる。
「僕の人生に何かが起こり始めた。」
そんな予感がしたのはこの2度目ギバラツに戻って来てからだ。
「まだ(人生は)終わらない。」 中学の頃から日記など書くことを趣味にしていた自分は早くもこの、セルビアの出会いについて一部始終を書いて本にでもしたいと思った。言葉が分からない僕は、仕事以外の空いた時間の多くを執筆に充てた。
ドラガンの家での生活が僕にとって非常によかったのは、その遠慮なき豊満な食生活だ。ビェリッチ家は手の込んだ料理はしない家庭だった。でも肉や卵、フライドポテトといったアメリカンスタイルに近いボリューム満点の食事が、毎日のように出された。
「トム、アイデ イェディシ!」(トム、ご飯だよ!)
毎日のように呼んでくれたボジャナ(ドラガンの妻)の声が、今でも耳にこびり付いている。そう。僕は不食というキチガイの思想を掲げながらも自分家の厳格な食生活による“飢餓感”をどこかで持っていたのだ。食べな、食べな、とごく自然に勧めてくれるこの家庭の雰囲気はその空気だけでも、僕の心の糧になっていた気がする。もちろん丸一日農場の重労働をした後のごはんは、がっつりと食べた。子供の頃にできなかった心置きなく肉を食うことがここではできた。しかし旅人ではなくなって、毎日仕事する生活になると、自然と村人との関係も落ち着いていった。旅人の時は人に興味を持たれ、一週間や二週間自分の話だけで時間は過ぎてゆくが、いざ腰を下ろすとなると僕の意識も当然他のことにも向くようになった。ベオグラードに出た際に購入したセルビア語の教科書なども少しずつ進めていった。だが時間が経つと、村の生活にも飽きが来た。飽きが来た、というか何か生活全体を支えるだけの活動が欲しくなったのである。
定住するというのはやっぱりそれ相応にそこに住む動機が必要になってくる。なぜそこなのか、近所との関係、自分の人生計画等、一通りの理由がないと定住して落ち着くのは難しい。 今だからこう説明できるのだが、当時は時間が経つにつれ消極的になってしまう自分がなぜだか分からなかった。
今言えるのは、ドラガンの心からの言葉を正当に解しそれをこちらも純粋な思いで応えることができなかったことにすべての問題はあった。
ドラガンが出してくれた50ユーロのお陰で旅が続けられる喜びを、彼を前にそのまま表し、旅を続けていたなら、それだけでセルビアは間違いなく“また来る!”と思う国になっていた。もっと立派な人間になって、正当な恩返しができるようになったその時に!
そうでなかった自分は村人やドラガンに対して完全にはぬぐいきれなかった人間不信と内面で戦いながら、ドラガンの農場のお手伝いをできる限りやってギバラツで時間をとった。そう。僕は誰とも分け隔てなく接したが、日本人や西洋人と同じようにセルビア人を信頼することはできなかったのだ。ましてあかの他人であっただけに。彼らが日本や西洋の一般人以上に純粋な心を持っているとは感じても、ある根本的なレベルでは不信感を抱いていた。日本までの人生が本当にどうしようもなかったために、多少の不信はあっても…、と思っていたのだ。
「多少の危険をおかしても」
といつも思っていた。ある面で死を覚悟した旅でもあったから。
「余生はギバラツで。」
そこまで考えたこともあった。しかしそれは自分の本心の望みとは違って、“こうあるべき自己像”に過ぎなかった。ドラガンにはサシャの他にマリヤ(18)という娘がいたが、あくまで僕の目に映ったことだが、ドラガンがあまりに僕を重宝するのでしっとしてか、泣き出したことがあった。美しい女の子だったが僕にはちょっと心が若すぎたのと、恋愛どころではなかったのが、彼女に十分な配慮を許さなかった。ドラガンが僕を愛してくれた分、僕もマリヤを愛していたら事態は違ったような気がするが…。
まぁなかったことは話しても仕方がない。
10月18日、早朝、僕は村を去った。月に2回、50ユーロずつお小遣いをもらっていたが、もらった直後にそれはそのまま残して、毛布を一枚もらって、出発した。
挨拶を、しなかった。
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