2009年12月26日土曜日

『今できる不食総括』 8

おばに厄介になる ―やっぱり訪ねてしまった―

 テーマ「不食」からしばらく外れて話をしてきたが、「不食」はまだこの時もマインドコントロールや狂気の呪縛のように思えたことが多かった。「不食を知らなければここまで狂ったことにはならなかったかもしれない」とか、なぜ自分が不食が無視できないのか理由が分からずに苦しんだ。ナットと一緒に居た時も、彼の前では豪華な料理を楽しむ自分と、独りになると三度三度の食事に無意識に耽っている自分を戒める自分があった。ナットに会った時は「不食」を知ってから2年以上が経っており、その間に確かに食事に関して進んでいる意識があったのだ。自分自身はそれを過小評価していたが。
 しかし、分かるように、「不食」は単なる食事の問題を越えていた。生き方そのものの問題だったのだ。不食は自分の人生観をみごとに覆していた。前にも述べたように、2004年の不食との出会いは、既に救い難く希望を失っていた自分を奮い立たせるパワーある思想との、運命的な出会いだったと言える。どんな宗教も同じ力は発揮できなかっただろう。そう思う。そういう意味で有り難き出会いであったと言えるかもしれないのだ。 
 去年夏ごろの日記にこう書いた思い出がある。「不食が希望だ」と。不食がなくなったら生きられないのだ、と。大げさかもしれないが、当時はたしかにそう思った自分があった。今日もその思いはあまり変わっていない。 
 
 連絡も入れずにいきなりおばを訪ねた自分だったが、おばは冷静に温かく迎え入れてくれた。すぐに目玉焼き3,4コとソーセージか何かのボリュームたっぷりのご飯を作って出してくれたのを覚えている。日本の母からおばに、息子が行くかもしれないと連絡もあったとおばは言っていた。
 おばを訪ねたときの僕自身の意識はというと、日本へ帰国して大反省の人生だ、というようなものだ。もうスイスはないと当然のように思っていた。おばの元で一日一日時間が経っていった。おばとは日本に帰る予定で話を進めていった。おばはチケット代を出してくれた。自分で、最寄りの町へチケットを買いに行った。3月15日頃だった。
 チケットを買ってからだが、日本の父から喝破の電話が入った。
 「日本になんか帰ってくるんじゃない!」
 
 たしかに、親父は全体をよく見据えていた。弱気の自分には大きな当惑、そしてショックだったが。
 あろうことか、と思ったが、これに対しておばはこんな僕にまだ救いの手をさしのべてくれた。スイスでもう一度、仕事探しをしてもよい、と言ってくれたのだ!同時に、「父にそうは言われていても、日本に帰ることはできるんだよ」と、行き詰まった僕の思考にゆとりをもたらしてもくれた。 
 僕はおばの厚意に甘えた。 
 それからインターネットを使って、スイスの教育を受けていなくても雇ってくれるような、主に外国からの出稼ぎ労働者向けの求人を探すと、すぐにいくつかよさそうな口が見つかった。おばの元で仕事を探すと決してから3日後には、割と近いところ(30km)に面接に出掛け、即試用決定となった。
 スイスも去ると決意する前の最後の出会い、トローラー農場との出会いだった。


2009.1.8◆トローラー農場1ヶ月半

 トローラー農場の主はまた非常にユニークな人だった。会ってみれば、存在からしてそれは伝わってくる。周りの人に言わせると、そのルエディという54歳の農家は、全くスイス農家らしくないという。僕は気にならなかったが、天然パーマの長髪で小柄、たしかに農家らしくない刺すような鋭い目つき、そして行動の俊敏さ。農家の割には他にいろんなことに手を出している。昼には村の人を招いて料理をふるまって、ゆったり談笑を楽しんだり、彼が兄弟と一緒に建てたという家にはギター、コントラバス、ドラムなどがあり、当然音楽もやる。更にはピシッと決まったウェアに身を包んで、高そうなマウンテンバイクでサイクリングに出てゆく。
 政界にでようともしている。農家という感じじゃない。言われてみれば確かにそうなのだ。そして驚くべきはその年齢を感じさせないエネルギッシュさだった。一度、彼の知り合いと3人で近くの湖をぐるっと回って帰ってくるというサイクリングに行ったのだが、日本では考えられないような速さ(時速30km/h)で走るのだが、大学時代自転車便(メッセンジャー)をやったり、交通費を節約するために20kmくらい平気で自転車で走っていた自分が、最後の坂ではびりっけつだった。もちろんベストコンディションではなかったのだが。 
 ともかくそのルエディという人物も強烈なキャラクターだった。
 「なんでこんな特別な人にばかり出会うのだろうか。」
 と不思議になった。それまでポーランドとか、東欧の人間ばかり助手に雇っていたというルエディは、スイス人であり、日本から来た僕を興味深く思って歓迎してくれた。
 「日本人はやっぱり仕事が違うな。」
 と言ってくれたこともあった。1週間、2週間、週末にはおばの元にカウンセリングみたいに帰って、突如始まった始まった新しい農場生活を、懐疑的ながら育もうとする自分がいた。春も訪れ、天気も日増しに良くなっていった。 
 自分の親は日本で寄宿生活塾という塾を営んでいる。ひきこもりや不登校の子供さんを預かって自立支援をするという塾だが、僕がトローラー農場で頑張れば、日本の子供たちをスイスに連れてこれるかもしれない…!それは僕にできる、大きな親孝行かもしれない…!!そう考え、前向き、前向きになっていくよう努力した。しかし…。
 それでも、それでも僕の心は十分に乗らなかった。例の、自分をむち打つ内なる声には耳を貸さない、へそを曲げたもう一人の自分があった。結局、トローラー農場という、ナットに次ぐ次なる可能性も、僕は生かせなかった。 
 「無理だな…。ここも。」
 小さな予感が、脳裏をよぎる。そして農場に来て1ヶ月くらいか、否定的観測の方がパワーを増して気力が落ちていった。 

 ある日、4月23日だったか、衝動に駆られて突然農場を出た。作業着のまま、手ぶらで脱走した。ピラトゥスという山にこもろうと思った。「不食」もどこかで意識していた。しかし翌日、20kmくらい先で、川で足を洗った際、パックリと足の裏を切った。そして、なんともなくひき返した。この時は反省するなどの意識もない。ただ、歩けなくなったから戻ったのだ。 
 当然ながら、このことで信頼性に大きな傷がつき、それまで僕の頑張りを応援してくれていたおばの期待も裏切ってしまった。4月25日、26日、おばも含め僕らの間で色々話があった。だが、もういいかげん終わりにすべきだった。「もう、分かっただろう、自分のことが。」言葉で言うとそういう感じだった。26日だっただろうか、ルエディに
 「やめたいと思います。日本まで歩いて帰ろうと思います。」
 と告げた。ルエディも悩んでいたようで、その意思表明には了解してくれた。
 「週末まで働いて、おばのところに顔を出したら、行きます。」 

 4月28日、土曜日、わずかながらルエディは試用中の給料を出してくれた。その一部には、旅に出ると告げたので、気を遣ってかつてのスイスの20フラン、小さな金貨を用意してくれた。人生で初めて触った金貨だったかもしれない。小さいのにたしかにずっしりと重い。価値が感じられる。
  
 もう話すことも無いが、挨拶だけしようとおばの元に行くと、自分の口からはっきりと、「日本に歩いて帰ります」と告げた。
 「Nein!」(英語の「No」)。おばはただその一言だった。ちょうど夫と外出のときで、慌しかったが、僕は家には入らず、玄関で要件だけ明確にした。3月に日本に帰ろうとした時におばが出してくれたお金を少しでも返そうと思って、もらったわずかな給料を返そうとするが、受けとってくれなかった。そして別れた。心は静かだった。

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