10月8日、ドイツも近くなると、敬虔なクリスチャンファミリーと出会いがあった。
太陽も西の谷間に落ちるころ、僕はとある村のはずれのベンチで休憩を取っていた。間もなく夜だったがまだ余力があってもう少し行こうとしていたところだ。
60くらいのおじさんが少し遠回りをして駆け寄ってきて声を掛けた。こちらもよそ者ながらドイツ語を話し、何をしているのか簡単に説明した。
「ちょっと一度家に戻るけどまだいるようだったらお茶でも飲もう。」
と誘いをかけてくれた。僕は別に飲んでも、飲まなくてもいい。2分ばかり経つとおじさん、ヘルムートはまたすぐ声をかけてくれた。それから3泊4日を一緒に過ごすことになる63歳、9児の父、信心深いクリスチャンだ。
バックを玄関におろし家に入るとやはりアルプスの民で共通、スイスの民家とそっくりだった。
木材がふんだんに使われた、どっしりとしていてまた温かい雰囲気。リビングに入るとヘルムートの妻エヴェリンときれいな娘さんミリと挨拶した。
お茶というか、そこに出ていたのは晩御飯だった。有り難く、温かいお茶を頂く。ガスバーナーも鍋もない僕は普段は温かい飲みもものなど飲めない。そしてまたこの時はこの時で周囲の雰囲気に合わせて自分の話をした。
Grazでアンナらとの教訓もあってか、無理には話せず、必要だと感じた時に「不食」という思想やお金もまともに持たずに旅に出た深い理由を一つひとつ話していった。今はその時何を自分がしゃべっていたかほとんど覚えていない。人に会うたびに自分のことを話すことにもこの頃には慣れたもので、特に意に留めないのだ。たとえ初対面であっても。
そして僕が哀れでみじめな浮浪者ではなく考えるもの考えている人間だと伝わると、ヘルムートは
「今晩泊まっていくかい?」
と次の誘いを出してくれた。
僕は自分が今現在は特定の信仰はないがマケドニアやギリシャで200ページ聖書を書き写したとか、キリスト教にも大変興味があることを伝える。すると彼らもイエス・キリストについてたくさん話すことがあった。その晩は2時間くらい話して頭も疲れるとシャワーを浴びさせてもらい、泊まる部屋に案内され、インターネットも訪ねさせてもらった。だがその時だった。
ダニーロという9児の末っ子(16)が帰宅してきて対面した。
僕は軽く挨拶をしてインターネットをしようとするが、このダニーロがどうも僕が気になって仕方ない様子。僕もインターネットどころではなくなった。僕は汗をかかなくなる涼しい季節は1ヵ月でも2ヶ月でも服を替えない。
十分乾燥していればそんなに不潔ではない。においも町の乞食のように周りを冒したりしない。あれは小便と運子をちゃんと処理していないための悪臭だ。もちろん体臭にも個人差はあるだろうが。
僕はシャワーを浴びた後だったが前だったか忘れたが、このダニーロが失礼なほどに疑わしい目つきで僕の足元(旅わらじ)を繰り返し繰り返し見ていた。そして部屋からも出ない。
仕方なく僕はまた一から自己紹介。どうやら他の家族もどこか不安なのをこのダニーロは敏感に感じ取っていたのだろう。
“そんな怪しむなら出ていくよ。”
とも言いたいほどだったが、ヘルムートの好意を裏切らないためになんとか頑張った。たとえばダニーロはこの時僕が日本人だということさえ信じられなかったようで中華の長いプラスチック箸を持ってきて、僕はそれを使えることを示さなければにならなかった。(疑われるということは本当に面倒なことである。)
2009.1.25
出会った日と別れた日を除けば丸2日、僕はヘルムートのファミリーと過ごしたのだが、2日目はたしかほとんど一日ヘルムートの息子マルク・アンドレーという警察官とStoderzinkenという山に登った。
その頃天気は毎日素晴らしくて山など普段登らない僕は重荷のない自分の体一つで軽快に登山を楽しんだ。
脱線になるが普段の自分の足は100kgの巨漢のそれと変わらぬ仕事をしているのだ。決してむきむきの足じゃないのだが今の僕の足腰は相当に鍛え上げられている。
美しい自然だった。景色を楽しむということも普段あまりしないのだが、この時はそれができた。いい思い出だ。家ではキリスト教の話も当然たくさんあった。やはり信心深い人達だけあってどこか宗教の話が多い。
「イエスは何を言っていたか。バイブルにはなんと書かれているか。」などだ。
僕自身非常に宗教的に育てられているのでそういう話も苦手ではない。でも、彼らは自分の認識からは離れてバイブルを絶対的に正当な根拠として話をするクセがあってそれにはもう少し肉付けが欲しかった。なぜじゃあそのバイブルの提言は正しいと言えるのか、その辺りである。
そしてもう一つ腑に落ちなかったのは
「イエス・キリストが唯一の神に通ずる道である」
という堂々とした彼らの認識だった。仏教をあなた方は知っているのか。イスラームをどれだけ深く知っているのか。これら3つの宗教に肌身で触れながら育った者としては彼らの見方は狭い感じがした。
でも僕も、できる範囲では自分を出し、過去の自分の苦しみをこぼしたりもした。クリスチャンやヨーロッパ人を前にそれはやりやすい。感情的になることを受け入れ合う気質があるからだ。その時僕は当然ながらスイスに戻ったら、日本に帰ることになる可能性を想定していたのだが、ヘルムートを前には、その時また父が昔と変わらず僕のことを否定したらその時は首にナイフを刺すかもしれない、
こうやって!!
と、一つ父に対してやりきれなかった昔の憎しみを表した。ヘルムートは感じて、涙を浮かべた。
お互い国籍も年代も、人柄も違うけれど、ヘルムートとはつながるものがあった。
僕はそこをその3日間、享受した。ヘルムートを去る時、息子のマルク(アンドレー)のザルツブルクのアパートを訪ねる約束をした。マルクがある時心から誘ってくれたのでうんと言ったのだが、ヘルムートを去ってからは気持ちが変わった。マルクにもどこか疑われている感じがしたからだ。
彼はアパートを他に3人くらいの仲間とシェアしているらしく(いわゆるドイツのWG、Wohngemeinschaft )、もしそこにいけば一からまた「不食」について、旅について、そして日本でどれだけ絶望的だったかについて、説明しなければならなくなるからだ。マルクの疑いを晴らすだけのために。
「それはできない。僕は自己主張が好きだと誤解される可能性だってある。」
そう思った。自ら誘いを買っていながら悪かったが、そうさせてもらった。
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