2009年12月26日土曜日

『今できる不食総括』 18

 しかしイゴールとの出会いはとても嬉しかったことは事実だ。
 彼との出会いを通じていろいろ得ることができた。特に内面的にだ。彼に出会っていなかったら、残りのアルバニア人しか住んでいないような地域ではマケドニア人との出会いはなかっただろう。そしたら僕にとってマケドニアは味気なく終わっていたかもしれない。
 イゴールの連絡先は持っていないのだが、サヴァにしてもイゴールにしても、そしてそれから会う人々にしても再会したい人物は多く、ひょっとするといずれ自転車でも使って“バルカンめぐり”に出るかもしれない。今度こそは20ユーロくらいイゴールの喫茶店で使うつもりで…  

 その翌日、マケドニアを北上していくとイゴールの元で出会ったムスリムアルバニア人との再会があり、その一日も印象的だったので話しておこうと思う。  

 残り80kmほどのマケドニアをコソボ目指していた僕はジャーミーなどムスリムの生活色が色濃い地域を歩いていった。すると突然車が止まりイゴールの喫茶店で会ったたしかジビと言った男性が声を掛けてきた。
 「なにやっているんだ?」 
 そんな風にすこし怪訝そうに聞いてきた彼に連れられて、僕は彼の経営するカフェに来た。
 コーヒーくらいは出してくれる。しかしまともなコミュニケーション言語を共有していない2人なので彼は怪しく思っているのはどことなく感じられた。
 (イゴールに連絡を取るの、かな?) 
 そしたらすこし面倒臭いことになるかもしれないと思ったが、抵抗するつもりはなかった。まだ日は高く、ジビはほとんど店に居なかったが、僕はたしか書きものなどしながら時間をつぶした。
 そして夜が来るとジビが、テントを建てられる場所としてカフェの目の前にあった小学校を提案したが、あまりに人目に付き、村も中心部だったことから少し抵抗をしたが、
 「ここは大丈夫、だれも危ない人はいない」
 というのでそこで野宿した。  
 朝になると校舎から白いムスリムの帽子をかぶったおじさんが、いぶかしげに
 「何やっているんだ。」
 とアルバニア語で来た。
 (ほら言ったじゃないか、ジビ!)
 と心で思いながら、こっちは必死に訳を説明、セルビア語で、だ。すぐジビのカフェへ行き、なんとか怪しまれずに済んだ。
 しかしムスリムの前ではやっぱり怪しい真似はさけた方がいい。僕がまだムスリムをあまりに知らないからというのもあるが、どことなく危険を感じる。この時のおじさんの目つきもちょっと危うかった。

 しかしジビのカフェに戻っても、一向にジビは出てこない。
 誘ったわりには態度がそっけなかったので、少し反感を持ったが、しばらくして僕は行くと告げると店に何度か顔を出してくれたおじさんが
 「おうちに食べにおいで」
 と誘ってくれた。
 それはボスニアから来たムスリムでセルビア語が通じ、怪しい感じはしなかったのでついていくとご飯を出され、食後には彼の家族と楽しいふれあいもあった。その家族にあった雰囲気は僕の知っているマレーシアのムスリムの雰囲気とかぶっていて(似通っていて)、なんだか嬉しかった。
 ムスリムは嫌いじゃないのだ。ただ外人である僕はいつもすこし緊張をする。  

 それから数日後、コソボに入った。
 セルビアと内戦があった地域ということは知っていたが、お金もないどこかみずぼらしい自分はあまり危険を感じなかった。危険を感じるどころか、国境から車に乗って降ろしてもらったFerizajという町はムスリム特有の活気があって、その調子で行けば危険はないだろうと思った。

 ムスリムが一般に旅人に対してもてなしをするのが好きなのは有名だ。このコソボでもそれは例外ではなく、人に声を掛けられるとTシャツをくれたりある時はレストランに行って食事をした後に更にお菓子まで袋いっぱいに持たせてくれたこともあった。  
 しかしコソボではこの旅でも特筆すべき出来事がある。
 コソボ首都も抜けセルビアとの国境に近づいていた時だ。体調を崩していた僕はとある新築、(構造のみ、まだ窓や戸のついていないもの)に入って泊まっていた。ふと立ち上がって家の中をうろうろしたのが見られていたか、英語の達者な家の持ち主が入ってきた。
 僕はその時片目が充血、おまけに部屋の隅には排便をしていた。更には赤く血がついている。飽食時に起きる「痔」によるものだ。
 それを見たおじさんは、怪しく思って、警察に行こう!と言い出した。一人で、歩きで旅していることも理解しがたいようだった。
 抗する術もないのでついていくと、Podjevoという北はずれの町で警察署につれて行かれ、椅子に座らされ、国連の警備員も含めた8人くらいに囲まれ、詰問を受けた。
 たしかに僕は体調を崩していた。人にもらったお菓子を一気に大量に食べたのが原因で、1日ゆっくりしたかったのだ。片目の充血もまた食いすぎの時にたまに起こるもので、自分では問題ないことは分っているのだが、この時は運が悪かった。
 
 でも他には僕は何一つ悪いことはしていない、クリーン(無罪)だ。拘束される理由がない。質問に一つひとつ答えていくとちゃんと理解され、すぐ解放された。そしてさっそくセルビア国境へと急いだのだが、国境では、追い返された。セルビア側が僕のパスポートに押された、入国時の国連のスタンプを認可していないのだ。  
 「セルビアに入るならマケドニアから来なさい。」 
 そう言われて戻らざるを得なくなったのだ。  
 当時僕はどういうルートでスイスまで行くか色々考えていた。その一つに前の年無礼そして無断で立ち去ったセルビアの農村に謝罪と感謝をしに行こうというのがあった。それで惜しくもボスニアや海の奇麗なモンテネグロ、クロアチアをあきらめて、農村を目指して、セルビアに入ろうとしたのだ。
 しかし追い返された僕はマケドニアまで戻る気はなく、モンテネグロに進路変更した。そうして元来た道をまた戻っていったのだ。  
 無駄足をしたことがくやしかったためか、もう夜になっていたが、まだ歩いた。すると…:  
 なんとおなじおじさんと遭遇し、「なんでまだここに?!」というようなことを言われた。
 訳をまた一通り説明すると
 「じゃあ、乗りな、少し連れていってあげる。」
 とおじさん。
 乗せてもらってからはまた色々質問された。  
 「どこに行きたいの?」
 「Kos. Mitrovica。」  
 「いやー、つまらない町(shit city)だからPrishtine(首都)にしなよ。」
 とおじさん。
 (いや、どこに向かうかは僕の自由でしょう)
 と思うが、どうもあまり抵抗を見せるのはまずそうだったので首都へと説得する彼に僕は息を合わせた。
 そして何分くらいだろう、20分くらい揺られただろうか、NATO(アメリカ軍)のキャンプに寄り、僕が泊まれるか聞き、無理となってはPrishtineの警察本部につれていかれた。警察に引き渡されるや、おじさんは息子と一緒に帰っていった。

2009.1.19  
 (昨日から足止めをくらっている。
 マイナス10℃の世界のあとは豪雨と強風、運良く材木の倉庫を発見しそこに泊まっているが、そうでなければ大きな試練になっただろう。これから旅を続けていくならばしっかりしたテントは欠かせない。
 気温はグッと上がり、4℃。フェーンという南風に乗って低気圧も入ってきた、そんなケースだと思われる。雨が降っているうちはどうしても進めないが、仕方がない、こればかりは。日本が待ち遠しいだけに辛いが、我慢してこの執筆などを続けていこうと思う。)

 
 午後8時ごろだっただろうか、警察に引き渡された僕はその日のPodjevoと全く同じように一から状況説明した。今回はおじさんに連れてこられている分、より一層複雑だ。警察を前に「無銭」と打ち明けたのはこの時が初めてだったかもしれない。
 興味を持って色々詰問してきた若い女性警察官も、食べ物はゴミからと告白すると、ピクッと驚きを示し、態度を変えた。
 その晩から二晩自宅の空き部屋に泊めさせてくれた男性の警察官はその時隣りで静かにたたずんでいた。  
 「こうなれば…」
 と思って、自分の本願―解放されて旅をこれまでのように続けたい―を押しとどめ、周りが望むような決断を採るようにしようと思った。
 アドバイスに従って町にある日本大使の出張所に行き、親と連絡をとることになった。だがそれは土曜日だったので月曜まで待つということでバシュキムという上記の警察官の実家に2泊したのだ。
 
 その翌日の日曜日にはバシュキムに連れられてコソボでは少数のローマ正教(?)の教会に赴いた。ミサ(?、日曜日の集まり)が終わった後は彼の友人らとカフェでコーヒーを飲んだ。その時彼の友人からははっきりとこう言われた。  
 『YOU ARE WRONG !』 (お前のしていることは間違っている!)
 常識から判断すれば僕がやっていることは「おかしい」ということは自分でも十分分かっている。
 無銭徒歩で旅をしていると知った他人が僕をどう評価するかくらいのことは想像できた。だからくやしくもなかった。
 僕は正直であり続けるまでだと、そんな風に思っていた気がする。  
 当然バシュキムと過ごした月曜の昼までは彼のお父さん(消防署司令官)、お母さんなど、色んな人に出会い、食事も与えられた。
 その家族は特別だったかもしれないが、コソボ首都はすごく活気があり、人々の生活はうるおいがあった。セルビアやマケドニアとは比べものにならなかった。コソボが独立するという話は聞いていたが、もう独立したのだろうか、怠けて調べていない。  

 月曜日が明けると早速出張所に赴いた。そして国連の日本人スタッフやオーストリアの大使館員と電話で連絡を取った後、父から出張所に電話が入った。
 訳を説明し、日本に帰るお金の送金を持ちかけた。
 するとだが、父は理性でもって、
 「もし思う存分旅をやったんでないならば、変に中断しない方がいいんじゃないか?」 
 と言った。  
 確かにそうだと思った僕は電話の後、
 「やはり旅をつづけたい」
 と出張所のアルバニア人やバシュキムを前に意思表明した。  
 これは僕の失敗だった。彼らは理解しなかった。  どこで間違えたか…。

 まず、体調不良といっても、新築に入ったことがいけなかった。そして十分に意思表示をしなかったことも。アルバニア人は押しが強いのは確かだ。でもそこでは自分も同等に押し返して意思を表明するべきだった。そして… 放棄された建造物ならまだしも、この時はやがて人が住む新しい建物を無断で利用した。柵もない、近所の子供達も簡単に入ってしまいそうなところだったが、おじさんを刺激し、2度も警察に連れて行かせたのは僕だ。なされるがままになったのは、その後だ。  
 「旅をするなら高貴な旅人でありたい」  
 イスタンブールに来た頃から自分は「浮浪者」ではなく「旅人」だと意識するようになっていた僕は、無銭だからといって人に変に世話になることはならないと思っていた。
 食べものはもちろん、服や靴など、消耗品の補充は、出会いなどに頼っていたのでは一人前の旅人とは言えない。確かに僕の持っているビジョンや生い立ち、やったことというのは人の興味関心をそそる。だから出会いの際には人は衣類や食べもの、時には餞別も出してくれた。そうして2008年も夏、大量消費社会に戻った僕は人の捨てるものでほとんど満遍なく自分の必要なものをまかなえるようになった。今は、一時日本帰国することになったが、次旅するならばお金を持って旅することも考えている。

0 件のコメント:

コメントを投稿