第2章 無銭徒歩 21ヶ月 7000KM
◆放浪のはじまり
7000kmというのは概算だ。実際の数値はよく分からない。最低でも7000kmはあり、そのうち20%くらいが乗り物だろうか。すると5600kmくらい歩いたということだが、数値的事実はあまり気にしていない。具体的な数値を調べるつもりもない。
2007年4月28日トローラー農場を去ったときは「無銭」という言葉すら知らなかったし、「旅」なんて言葉が使える分際ではないと思っていた。
それはイスタンブールまで2500kmを達成したときでもそうだった。自分では、「お前は乞食だ。」と言われても認められるくらいでなきゃと思った。現に、「不食」を実践するのでもなければ、給料が尽きたらゴミを食べるしかない人間なのだから。だから自分のやっていることは「浮浪」「放浪」なのだと長く自分に言い聞かせていた。21ヶ月という時間がたってやっと「無銭徒歩7000kmの旅」と恥ずかしがらずに言えるようになった。
ひとつ、言い忘れていたことがある。バックパックのことだが、自分が日本から持ってきた荷物は、おばを訪ねたときにおばと一緒にナットのアパートを訪ね、謝罪して返してもらっていた。放浪はだから自分の持っていた荷物で始まった。これからも書き進めていくうちに、「ああ、これを言い忘れてた…」と、述べるべき内容を忘れることがあるかもしれないが、それは容赦願いたい。まとまった内容を書き上げるだけに急がねばならず、細かいことに配慮できないのだ。今回設定して60の題目をすべて書き終えたら全体のバランスをチェックしようと思っている。また書いた後で人に質問など受けるうちに出てくることもあるだろう。
だがこの旅立ちは、自分でも計り知れない大きな意味を持っている。下手に形容することに抵抗がある。ある時は、実質的な「死」であったと思う。またある時は負け犬がみじめなのら犬になったときだと思う。これをどう定義するかで自分は全く変わってくるのである。だから下手なことが言えない。2つの課題を掲げて、これから日本に帰ろうというところだが、この旅のはじまりをどう捉えるかで、帰ってからの自分は全く違うのだ。まだ自分は社会性を失った廃人だとすれば、戻って成功するはずがない。ここでは客観的な事実から当時の様子をできるだけ詳しく思い出してみたいと思う。
まず旅券のこと。日本を出た時僕の持っていたパスポートは、大学2年次に休学したときにつくった日本とスイスの5年有効のものだった。そう。僕は二重国籍なのだが、これは何度か日本の国籍法でどんな問題が有り得るか、相談会に出掛けたりして調べたことがある。スイスは二重国籍を認めているのだが、日本はそうではない。だが法律の改定などがあったりしてその辺りは複雑である。
自分では国籍はひとつに決めた方がよいと思ったことは数えきれないくらいある。でもスイス国籍を持っていることに実質的な問題がないので、気持ちがハッキリしないうちは下手にいじらない方がよいと思って放置しているのだ。
そういうわけで自分の持っていたパスポートはスイスのが2007年7月上旬、日本のが8月下旬には失効するという、そんなパスポートであった。海外に出るなら旅券くらいしっかり準備して行った方がよいと、まして自分のように長くなる可能性が高い場合はなおさらそうなのだが、例によってそれも本当に構うべき対象ではないと判断していた。死ぬ覚悟で日本を出たなら、旅券の有無だって基本的には関係がないのだ。
トローラーを出た時はもちろん期限のことは頭にあった。それでも「日本まで歩く」と決めたのは、事の次第は実際にその時になってみないと分かるものではない、という観念上の説得があったからだ。やることやってだめなら、成るように成ることに従う他ないではないか。そんな考えもあった。そして何よりもし、バルカン辺りで両方の旅券が執行する8月下旬になっても次のパスポートが手に入らなければ、不法滞在を覚悟して、その時こそ完全に追いつめられて「不食」目指して山にでも入ったらいいと思った。
だがトローラーを出たときにはお金だけでなく金貨までもらっていた。金貨は180CHF(スイスフラン)の価値があるとルエディは言っていたので、それなら金貨で旅券発行には間に合うと、そういう心の拠り所もあったのだ。
別途もらったお金は、テントを買おう、しっかりしたナイフはあるか、ウィンドブレーカーは、などと考えることはせず、なんでもないスイスのスーパーの食品にほとんどを費やした。トローラーからスイスイタリア語圏を通ってイタリアに入るまでにそのお金は尽きたが、その2週間ちょっとの間、僕は日々存分に食事を楽しんだのだ。こころおきなく。
◆旅Ⅰ '07 4月28日~7月20日
すべてから解放され、日々気分に任せて歩くだけとなった僕は、パスポートの問題がなければ旅が続くように、冬までに南へ下ろうと思った。スイスからはポルトガルも南だが、日本とは逆だし、それ以上先がないのでほぼ迷いなくトルコを思った。間に合わなければギリシャかなと思った。そしてお金のあったうちは実に気楽に一日一日を過ごした。
スイスのチョコレート、ヨーグルト、バターと砂糖たっぷりの“ Zopf ”、お金があるうちに楽しんでおくと思った。 緊張は、言葉が解せなくなるスイスのイタリア語圏から高まりはじめ、お金が尽きるのと同時となったイタリア入国で本格的になった。
ビザのことだが、スイスのパスポートが有効なうちはヨーロッパは大丈夫な可能性が高いと思い、そんなに心配しなかったが、問題はスイスパスポートの方が1ヵ月半ほど早く失効すること。その後は日本のパスポートしかないから、ひょっとするとスロベニアに7月までに着かないと、オーストリアの方しか行けなくなるかもしれない恐れがあった。
日本のパスポートは強いことは知っていたから、ハンガリーもパスポートだけで行けるんじゃないかと想定していた。ハンガリーまで問題なければ、ウクライナの国境さえどうにか越えればロシアを通って一気にウラジオストクまでいける。もちろん、国境ということだけ考えた場合である。
一人になって24時間好きなことができるようになった自分はありとあらゆることに試行錯誤を始めた。固定観念を解くことを狙い、純粋な体験をするように努力した。始めは「ゴミを触れる」ことから大変抵抗がある。食べ物を発見しても、変な汚れはないか、有害なものは付いていないか、毒など入っていないかまですごく気になる。毒の入れられた食べ物をごみから見つけるなんてまずないことなのに、万一を気にすると、すべてが気になるようになる。
そしてやはりもっとも大きな懸念は人の目だ。怪しまれなかったとしても、声を掛けられるかもしれない、そしたらどうするのか…?ということだ。
黙って速やかに立ち去るか、言葉が解せない知能障害などの振りをするのか、それとも正直に外国人であることを告白してみるのか…云々。人が話しかけてきた場合どうするのかということに無数の切り札を考えるのだ。どんな風に人が関わってくるかということについても無数にケースを想定してシミュレーションする。見た目がヨーロッパ人とはいえ、長年の日本での生活によって、ヨーロッパの人が自分にどう反応するのかということは意外と「知らなかった」。そういうものは普通成長していく中で無数に体験を積んで血肉となっていくことだから、自分にはまさにそこが欠けていたのだ。文化を越えて育つダブルの人間の苦労は実にそういうところだと思う。文化の色眼鏡でみつめると、はえぬきの人間とは絶対にズレがあるのだ。だから部外者扱いされたり、理解されなかったりする。
自分がした体験だけに、あえて、訴えてみる。
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