父との電話で考えをコロッと変え、旅を続けることにした僕はバシュキムにこう言われた。
「To me, you are crazy.」 (僕にとっては、君は狂気だよ。)
寡黙だった彼にそう言われてしまうと自分が悪い気がした。バシュキムや彼の家族にもいずれお詫びと感謝の連絡をしなければならないと思っている。
Prishtineを出た僕はモンテネグロに行くことにした。Prishtineから真西にピューっと伸びている道をPejaというビールでも有名な町を目指して歩いた。最初の数日は人との出会いはなかったが、残りのコソボはまた毎日のように人に声をかけられ、コーヒーをもらったり食べものをもらったりした。
実に人なつこい人々で、彼らには多くの元気をもらった。「コソボ」と言えば戦争があったばかりでさぞかし人は殺伐としているのだろう、とか思ってしまうが、それは偏見だ。彼らは先進国の、仕事に追われた人間よりも心の自由を持っていたりして交際するのが楽しかった。
Pejaを過ぎてからはぐんぐんと山を登る。
日光のいろは坂を思い浮かべるようなぐねぐねした道を登っていくと、国境も間近、モンテネグロ人が車を止めてくれた。どこか気持ちがうつむいていて元気がなかった僕は乗せてもらい、一気に50kmくらい進んで、国境から一番最初の大きな町で降ろしてもらった。山岳地帯から景色がガランと変わったのを覚えている。それは一見スイスにも似た、針葉樹と高い山々に囲まれたきれいな国だった。
Andrijevicaという近くの町に日本人村があると聞いたが、訪ねる気はしなかった。そしてただ早く進もうと、セルビアの農村を目指していた。モンテネグロは2泊3日、ボスニアは10日あまり、端っこをかじるようにして歩いた。
◆ブラゴイェとの出会い
ボスニアでは入国間もなくRudoという田舎の村でセルビア人のブラゴイェというお父さんに出会った。
自分の父とも重なるくらいの年齢で、子供達も大人で別のところに住んでいる。妻と二人のアパート暮らしだったが、たまたま道端でゴミ箱をのぞいていた時に車を止めて、声を掛けてくれた。
ボスニアは山が多い。この時も景色は最高だが何にもない山道を延々と歩いていて、前の年に楽しんだヴォチェ(セルビア語、木の実)というまだ未熟な木の実を食べたりしていた。他に何を食べていたかはあまり覚えていない。ボスニアに入って日も浅かったので一時のひもじい時だったかもしれない。
ブラゴイェが乗せてくれると
「これから小学校に民族舞踊のレッスンに行くんだが、一緒に来るかい?」
と誘ってくれた。面白そうだと思った僕は行かせてもらうことにし、その途中、ご飯を買ってくれたのをよく覚えている。空腹だった僕は有り難く頂いた。
ブラゴイェはダンスの先生だったが、ヴィシェグラードという町での発表会が間近で、すぐだからそれまで僕のところに泊まらないかと言ってくれた。そうして確か日曜だったその子供達の発表会までブラゴイェのアパートでお世話になった。
このブラゴイェというおじさんも、すごく心が通じる人で、僕には非常に精神的な励ましとなった。
出会いというのはパワーの源泉だとその頃よく意識するようになった。別に食べ物をもらわなくても、ベットを与えられなくてもだ。心が通じるだけでそこにはパワーが生まれる。
ブラゴイェと2泊3日過ごした後は、気を取り直して前向きにギバラツ、セルビアの農村を目指した。そして6月上旬、ついにセルビアに入国した。
2009.1.20
(昨日の執筆はどうも注意散漫で、読み返してみると本当の調子じゃない。スイス到着数日前に急な嵐にみまわれ、何もできない夜は長く、気分が悪かった。もし本でも書くならばもう一度書き直すべきだが、この書きものは自己満足なのでそのままにしようと思う。今日はようやく嵐も通り過ぎて前に進むことができる!)
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