2009年12月26日土曜日

『自称卒業論文』 7

12.12.2004
 母はこのような姿勢で家族と接してきた。 私が今、見えている範囲で母と父を見ると、こうなる:

 母に対して、まず一番最初に浮かんでくる疑問は、全く異文化の地に嫁に行く、その決断は思い切った決断に違いないが、それに彼女は冷静に向き合うことは出来ていたのか。ただ、変わったこと、勇気ある行動として賞賛されるのでは済まされないものがあることに気づいていただろうか。ということだ。
 以前にも述べたように、私に両親が父母ではなくそれぞれが人間像としてとらえられるようになったのはまだついこの間のことであり、最近の母を見て判断すれば(私はそれしかできないが)、推測では、自分の故郷スイスで何か嫌なものがあり、それを一掃できる手段として父と結婚することは魅力的であった。または、母は父と知り合ったことで、アジア人との結婚というスイス人にはまだほとんど歩んだ人のいない道が彼女の前には広がっていた。
 彼女はかなりな冒険家でもあるから、若い彼女が、その未知の道に飛びつくのは彼女らしいともいえる。――冒険心に掻き立てられた、目の前に広がる道――調子に任せて踏み切ってしまった道。その勢いのあまり、人間関係の心の通じ合いをなおざりにしてしまった。自分はユニークな道を歩んでいる、そのことに酔ってしまった…。冷静でなかった。そういう事実があるのではないか。
 心の通じ合いを子供との間だけで事足れりとしてしまった。まずは、夫ともっと向き合ってみなければならなかったのではないか。 こう思うが、私はこうして肉親のことを事細かに批判していると、自分は親に憎しみを抱いているとか、親を苦しめることがしたいのかという感じになるが、狙いはそこではない。このような激しい批判をするのは、これまで誰も客観的に、深い考察をしうる人間がこの家族を見たことがなかったから、私はこのようなことを書きつつ、できるかぎり冷静に眺めてみたいのだ。

 続ける。母は温厚な優しい人間を振舞いながら、他人が彼女に心をこぼすのは受け入れるのはするのだが、逆に彼女自身が他人に心を許したり、自分のことをゆだねることがなく、距離を置いて接しているところがある。これは母は父に頼れないという意識の中で結婚生活の中でできてしまった性格なのか、それともそれ以前から、母の幼い頃からあったものかということが気になる。
 もし、結婚生活の中で不幸にも心を許せない人間になってしまったのならば、私の母の見方は変わるのだが。しかし私は、彼女は夫と出会う以前から、他人に心を許しきれない人間であったのではないか、と思っている。彼女の人生で、意地というか、どこか不自然なプロセスが強行されたように思えるのだ。それは今の彼女の普段からの物事の収め方に、結構強引な面があることから、そう思う。
 彼女は、夫の分も頑張らなければ(私はできる!)、という意識の中で、身の周りの、より多くのことに、一人の人間では能力的に不可能である所まで手を出して、家族の中のあらゆる活動を彼女の計算(頭)がついてくる限りにおいて精一杯にやってきた。今もやっている。しかしそれは“無理”である。
 彼女が出来る限りにおいて活動に加わるということは、裏を返せば、他人に仕事を任せない、任せられない、任せるのは不安だ、ということでもある。彼女は他人を信頼して仕事をゆだねるということが、そもそもできないのではないだろうか。あることにおいて、他人に自分の心を委ねる、そして自分は自分のことをやる。そういう関係の中で、物事は無理なく収まるはずである。そうすれば3人家族であれば4人分の、5人家族であれば6人分のエネルギーが生まれるはずだ。 母は、どこかで、自分が他人にお願いしても、相手は気乗りしないのではないか、拒否するのではないか、という不安があって、母は他人に本当の意味で「任せる」ということができないのではないかと思うのだ。

 今、私の家族の夫婦の1+1は2以下だ。通じ合っていないから。却ってお互いがお互いのことを邪魔するようなことが起きている。私は母には、話によって解決する余地があるから、母に真剣に向き合ったら、彼女の心を和ませ、私の思いを伝えることはできる気はするが、私には私の人生があるし、そこまですることは自然な流れではないのでしようとは思わない。
 私には、母を思う気持ちと同居して、昨日日記帳に書いた*ような母に対するやりきれない、暴力に出るとも分からない思いがあるからここは、おとなしく身を引こうと思う。彼女に奉仕することは私の心が望んでいることではない。

 母に関して、あと一つ。 私がこれからスイスに行くことを考えると、自分の立場を母の若い頃に重ねてみることができる。『言葉』の問題だ。
 私がスイスに住むということはある意味で、私の母語“日本語”を放棄することだ。スイスに永住すれば確実にそうなる。スイス・ドイツ語が母語になる、またそうしなければならない。 私は今こうして日本語で書いている。私にとってこれほどまでさまざまな表現を可能にする日本語をいう言葉。これを手放そうとしている。
  同じこと、いや、私よりはるかに大きな言葉の壁を母は、日本人との結婚という行為をすることで自動的に突きつけられた。彼女がそれに気づいているか否かは別として。私は、ドイツ語というベースを使ってスイス人の自然な心の営みをそのままに、ありのままに、理解できるようになるつもりであるが、ベースもなかった母はこういうことをどう考えていたのだろう。 母は、この日本で暮らしていて、私が昔思っていたよりはるかに日本語をそしてその心を、曖昧にしか理解していない。彼女は、言葉の壁という障害で生まれる理解不足をカバーするために、直感とか感覚というものに頼って「理解したつもりになる」という方法で、本当に理解していなくてもうなずいたり、少々強引に自分のペースで話をしたりするようになった。
 正確なコミュニケーションの大切さを、結構無視してしまった。 これも、彼女が夫の分も頑張るという意識によってそこまでやってしまっているのだとしたら、それは明らかに“無理をしている”のあり、そのようにして彼女が気張らなければならないのは彼女の問題であり、他人はそれに付き合うこともないし、付き合わされるべきでもない。心のどこかにしこりがあるためだと思う。素直じゃないところがどこかに伺える気がする。とにかく、彼女のコミュニケーションのとり方は曖昧という以外になんでもない。あまりに不正確な情報のやりとりで事たれりとしてしまっている。

 そのような限られた、非常に狭いコミュニケーション方法を子供の頃から身に付けさせられた僕ら子供からすれば、僕らが社会に出たときに、人間関係でうまくいかないのは当たり前のことだ。私は苦労したわけだ。 言葉の壁。文化の壁といってもいい。これは心によって乗り越えることはできるが、いい加減に扱われてよいというものではない。あくまで意識しながら、不足分を心で補えるというだけだろう。私はこの母の二の舞にはならず、スイスでも、正確なコミュニケーションを目指したいと思う。

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