2009年12月26日土曜日

『自称卒業論文』 8

15.12.04
 母について述べたことの多くは父にも同様に当てはまる。父と母はその家族の中の役割としては全く違う立場にあった。父は一日のうちほとんどの時間を外で過ごした。母は仕事に出ることもなく、他なき「専業主婦」で、子供が帰ってくれば家にいて相手をした。そうやって母のほうが圧倒的に多くの時間を子供たちと過ごした(一般的な家庭もそうかもしれない)。
 日本に帰ってきてG塾となってからは父もうんとそういう時間を持つようになったが、私の生い立ちの中では父は精神的にも物理的にも基本的には「外」にいる人だった。夫婦でそういう違いはあったが、『国際結婚』という責任を軽視していた面は、同様にある。 父が、結婚二十数年して、いまだに、話を理解していない母に対して『この人全然言ってることがわかってない…』と、まるで身内でない人間にいうような言い方をするのを聞くとため息がでる。

 父はもともと、周囲に意識が及ばないところがあって、相手の立場を考えて行動するということがあまりできない(しようとしない)。この前、父がG塾の活動として参加しているA農園の野菜配達のお手伝いを、僕がすることになった。宅配を受け持つことになった。宅配に関して私は、当然ながら、無知だったがそんな僕に対して父の配慮のなさはひどいものだった。普通に考えて、おかしかった。やり方を知るよしもない人間、失敗してもあたりまえな素人に対して、少しでもミスがあると、どなる。『気をつけろよ!…』『あぶねぇよ!』という具合に。能力がない、とけちをつけることさえある。そこに、『これからは気をつけろよ』という思いやりはありゃしない。
 そんな親分についた弟子はどうなるか。決まっている。親分の優れた面に憧れて、慕っている間は、親分の言葉が怖くて、ただひたすら、ミスのないように、全身に神経を使って仕事をする。(弟子には、緊張をほぐしたり、心を穏やかにして親分と付き合う余裕はない。)やがて、時間がたっていろんな大人を見て知るようになる頃には、この親分についてゆくのは馬鹿らしいと思うようになり、離れる。それが落ちだ。父には知識とか、母にない冷静な判断力があって、その面において若者を指導する人間にはなれると思うが、全人間的に人生の先輩として指導するのは限界があると思う。一つのことに集中する能力は大切だが、それによって全体の流れが損なわれてしまうなら、せっかくの集中力もあまり生かされないと思う。
 私は父に対して何度、「どうしようもない」と無念の思いに沈んだことか。
  もう一つ、この前の宅配でのことを書いておこう。忘れてしまいたいが、記録として。 『宅配をする時は、誤配に気をつけなければならない。宛名が似ているものは間違え易いので特に注意する。』 二年前、自転車の宅配便(messenger)をしたときに、くどいほど言われていた。
 宅配の手伝いに初めて行った日、私は自分のメッセンジャーの経験などからも宅配で気をつけなければならないことを、自分から、父に色々確認した。父は父で私の立場を十分に思って説明などしてくれず、(というかあの人の物事の収め方自体、他人に意識の及び得ないやり方なのだと思う。)私がやたら気を遣って頑張らなければならなかったのだが、この日、私は『名前が同じお客さんもいるの?』と確認した。 親に頼まれた仕事であったが、とにかく一つの立派な仕事として、私は責任感をもって取り組もうとした。
 しかし、父の、私に対するあまりの配慮のなさに、宅配が終わったときの私は精神的にもくたくたになっていた。父の自分勝手な言動は相手にしないつもりであったが、一午後ずっと一緒にいたのではさすがに父のペースに引きずり込まれた。
 「だめだ。こんな環境じゃ、仕事にやりがいを感じるどころか、心が磨り減ってしまう。」そう強く思った。建前上絶対的な権力としての父が私には耐えがたかった。父の上に立つ、または同等な身分として共同で仕事を決めてゆくなら一緒に居ることが考えられるにしても、そうでなければ、全く無理だ、と実感した。実家を出て一人暮らしをする前の、「苦しみ」が、鮮やかに思い出された一日だった。でも半分相手にしていない自分もいたから、なんとかやり過ごせた(相手にしたら、私はいつでも、また父をだろう。)。

 「十分に相手をしつつも、もう一人の自分が距離をおいてその全体の状況を眺めている」、という物事の見方がいつの間にか身についている。最近はほとんどそうなっている。 2回目の宅配の日、坂本さんという人が2人いた。この時は私はドライバーを担当したのだが、この日のお客さんについては前もっての確認がされなかった。私が「確認させて」と出てもよかったのだが、寡黙でマイペースな父に自分から色々確認しすぎると、これがまた適当に嫌な顔をして受け答えされるので、それは、私ばかり疲れて割りにあわないので、本来ならばそういう人と仕事はしたくないのだが、「その人」が「父」であるから、私は人一倍に宅配が無事済むことに神経を使った。
 しかし、坂本さんが2人いることには気づかず、「誤配」をしてしまったのだった。
 宅配が終わって、家に帰ると、そのことが発覚し、よりによってその時ちょうど、自分で野菜を取りにくるもう一人の坂本さんが来てしまった。突然のことにさすがは父、即座に応じた。だがその弁解の仕方はこんなものだった:
 『あぁ坂本さん、すみません。今日がですね、坂本さんの分を、間違えてもう一人の坂本さんに届けちゃったんですよ…』
 『あそうですか。』
 『すみません。後で届けさせますので。』
 『全然いいですよ(^^;』

 …私は父を、許した。これも相手にしていないからこそ、できたことだ。 でも私はG塾で生活を続けることはできない。心が磨り減ってしまう。苦しい。父は自分で気づいているかは知らないが、他人の努力をことごとく踏みにじるところがあるから、辛くてたまらない。スイスに行くことにしているが、万一行かないということになっても、居れない、G塾には。スイスに行くことの妥当性が高まった。

 父には、自分の関係ない事は手を出さない、という姿勢があることを前に述べたが、私は同じようにして、父に関してやりきれないところは、「関与しない」という手段を採る。
 今回、私は母に関して、父より多くを書いたが、それは母が、どこまでも関与しようとする(本当に関係のないところまで)、そしてすべてを決める亭主のように自分で事をまとめたがるから、強引さという意味では母の方が強いので、強引な人間には少し辛く当たらなければならないから、多くを書いた。自分の意見を付するべきでないところで自分の意見を挟んで、邪魔をする。そういう面で母は、私にとって父より目障り(厄介)であるから、彼女についてはそれを細かく書いた。あるいはまた母というのは、父以上に私の心に染みた存在だから、多くを書きたくなったのかもしれない。

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