2009年12月26日土曜日

『今できる不食総括』 10

2009.1.9
 (昨日は妙な一日であった。少し今の状況について書きたい。  
 1月7日、本格的に東へ戻り始めるとアルジェリア移民のフランス人がトラックを止め、声をかけてくれた。もう乗り物には乗らないか、乗っても10~20kmにとどめている自分は、今回は70kmほど乗せてもらい、Lyonまで一気に戻った。日本に帰ることになったため、後悔しない気がしたのだ。
 ルアンからスイス帰りを考えていた自分は、どんなルートで帰るか迷っていた。だがLyonの10kmほど北東に驚くほど良質のパン類がどっさり捨てられている場所を知っていたので、そこをもう一度通って帰ろうかと考えていた。
 そこを通ったのは12月28日のことである。以下一部日記: 

12/28から
【さて。今日はひどいものだ。
①出発直後なんとなくコンテナをのぞき、ヨーグルト少々 
②まだ夜明け前次の村にてエビ(凍結)、クリスマスケーキ、クロワッサン菓子 
③Montluelにてクラッカー、古チーズ、コーンフレーク(丸型・白) 
④Montluel端、フランス初、Intermarcheeにて多量にゴミ発見 
⑤道を間違え、高速の方にそれる。マックを発見。その隣のパン工房(日曜で休日)からは豪勢なサンドイッチやビターチョコムース(ナッツ入り)など。これは食欲を湧かした。
 よって多くは本当の食欲もなかったが食べているうちに食欲復活!!とりこになったと言える。なさけない。】  

12/29から

【今朝出発した当初は昨日の⑤ベーカリーのビターチョコムース(?)ナッツ が忘れられなくて困っていたが、今日は今日のベーカリーのごみからスイートブール(?)(砂糖シロップのかかったもの、大)を見つけて食べると、甘さの刺激に感覚がなごんだ。“甘いもの”それすなわち中毒性があると思い立ったがちがうだろうか。】   

 だからモハメドというそのあんちゃんにLyonまで連れられた後は、その日のうちにもそのパン工房まで行くことに決めたのだ。Lyonで他にできることと言えばインターネットによる帰国意思の発表など考えていたが、両替所を見つけるだけで十分手間で、人に聞くまでする気力がなかった。
 両替所で持っていたスイスフランを換金したのは、スイスのおばにやっぱりお金を取りに戻るという旨を伝えるためだったが、結局、両替して手に入れたユーロではフランスのスーパーにて初めての買い物をしたりした。
 そうこうして時間がたっていくとおばに手紙を書く余裕までなかったので、例のパン工房に向かうことを優先した。
 降ろしてもらった場所からそのパン工房(MiribelとかMontluelというところにある)までは実に10kmはあると思われる。とにかく、不意にもLyonに着いた自分の頭にはどうしてもこのパン工房があったのである。
 「今回行ってもあるだろうか。」 
 食欲にとりつかれていた自分は多少無理をして歩いた。逆方向から向かうが方向感覚には自信があるため主要道から2、3km離れたその場所には適当なところから最短を狙って曲がってみる。みごと通った道につきあたり、午後6時くらいだろうか、業務も終わったひっそりとしたその工房に入ると案の定、大きな紙袋一杯に種種雑多な製品が捨てられていた。
 今回は前回よりさらにきれいに、パンだけが袋に入っていた。選んで、自分の持っている小さな袋に詰めて持っていこうとしたが、あまりにたくさんあったため、その袋ごとバックになんとか詰め込んで、食事にありつける場所(その夜の寝場所)を探しながら東方向に続けていった。
 100mも歩くと運良くそこにはゲートの開いた車整備かなにかの会社があり、その大きな屋根下に入り寝支度を整えた。詳しくこのまま話していくのも悪くないと思うが、一向に終わらないので短縮すると、その晩の食事には実に満足した。神様がめぐんでくれた、そんな気がした。 
 
 翌朝、ルートを決めた。来た道は戻らず、Lyonからは少し北へ上がって北スイスからスイスに入ろうと思った。そしてLyonの方にだいぶ戻っていったのだが、スイスのおばのことを考えていると、実は癌で放射線治療をしているのだが、戻るというメッセージだけじゃなく何かポストカードと絵を描いて送ろうと思い、Lyon中心部までもう一度行くことにした。 
 前夜の豊かな食事に満足していた自分は、ではまた断食だというような気持ちでいたが、ここからがおかしかった。 
 財布にはフランス語圏スイスで出会ったジャクという人からもらったスイスフランが入っていた。7日に両替したのは20フラン(12ユーロ)でその残り8ユーロくらいあったが、これを僕はLyon中心部に着く前にスーパーで、缶詰食品などつまらないものに消費、食事をする。そして次には残りのスイスフランもユーロに替えてしまおうと思った。何でもいいから使ってしまえとそんな思いだった。
 全部で120フランを換金、75ユーロくらいをゲット。両替所を出た直後、障害者募金と名乗る少女(20くらい)にフランス語で声を掛けられる。解しない。
 名前のリストを見せられたので著名活動かと思い、“ハンディキャップ”という言葉は聞き取れたため、気楽に名前などを書いていった。すると一覧に金額の欄が。ん?、ちがう!これは募金活動だ。と理解しなおし、少し、焦る。お金は使ってしまえと思ってユーロをゲットした直後に、これである。
 たしかに、募金してもいい。英語のまったくと言っていいほどできないその少女はフランス語で何やら言い続けている。「ちょっと待て!」と自分のなかで警戒信号。思考が猛烈に全体整理。 
 「よし。10ユーロ出そう。」
 そう思って10ユーロを差し出すと、少女、「20ユーロを。」と。他の募金者の金額欄を指差して言った。こちらが(なぬ!?)と黙っているとねだるように何度か言ってくる。 
 「Why do I have to give 20 Euro!?」(「20ユーロじゃなきゃだめなのか?」) 
 言い方がおかしいのでそう返すと、彼女、言葉のため質問を理解しないで同じことを繰り返す。"分かっているよ!!だからなんで20ユーロなんだ!?”、とこちらは思う。
 ちょっと理性を失って他のスタッフに向けて顔を上げた。英語を話せる人は他にいないのか?、と他のスタッフに声を掛ける。すると1人2人近寄ってきたが、こっちの質問に答えようとする姿勢は見られない。
 僕は彼女に渡した10ユーロを自分で取り戻し、「NO.」の断言であとずさりした。すると少女、あわててついてくる。「NO.」「NO.」と僕は言う。だが、しぶとい。
 


 「はぁ~。 仕方ない!!そんなに20ユーロが欲しいならくれてやるよ!」
 
 そう思い、きれいに著名しなおし、20ユーロを渡し、最後に手を出し、彼女に握手を誘った。(信用するからな!)と心でつぶやきながら。
 彼女、手は出したが、決定的な瞬間にしっかりと目を合わせなかった。感謝の気持ちも伝わってこなかった。
 去っていった後、後味が悪かった。すべてわずか5分あまりの間に起こった出来事だったが、自分の最善を尽くしたが、いかさま募金(町の貧しい子供たち(ムスリムっぽい少女だった)が善意の一般人をだまして金を取っている)が見分けられなかった自分が情けなかった。真相はわからないが、おそらくいかさまだ。

 そんなことがあると、混乱気味になりながら早くポストカードを、と思って中心街を歩き続けた。残りのお金も早く使っちゃおうかという気持ちになって、オバマ大統領の自伝が表に出ていた本屋に適当に入ってみた。残りのフランスの旅の間にフランス語をすこし勉強できるように、前から思っていたツーリスト用の会話帳や、フランス語の表記法(読み方を覚えるため)の本を探したりした。
 思ったような本がない。仕方なく店を出ようと預けていたバックパックのところに戻ると、目の前にポストカードの棚。
 お!
 しかも自分の持っている封筒に入りそうな大きさのものがあるではないか。ポストカードだけでなく絵を送りたかった僕は、自分の封筒にポストカードが収まらないことを懸念していたのだが、これなら問題ないかもしれない。細長いタイプのポストカードが3、4種類あった。
 絵柄に迷う。
 どんなものがいいだろうか。どんなものがおばは好きだろうか。
 いまいちぴんと来るものがなく、普通のポストカードを真ん中あたりで切って送ろうかなどと考えていると、店員から「そのポストカードは封筒がついてきます。」と声が掛かった。
 「うそっっ!!」
 一気に有頂天になる。3枚買って店を出た。
 「よし。これでLyonでの用事は済んだも同然だ。」
 
 気分も落ち着き始めて、いよいよ北に歩き出した僕はしばらく歩いてカフェに入った。おばの手紙か、この書き物をしようと思ったのだ。
 おばへの手紙を、鉛筆とオレンジ色の色鉛筆2色で書き始めた。絵などそう書かない自分は、苦手ではないが、いかさま募金の困惑も残っていてか、スムーズに思ったものが表現できない。「お金を取りに行きます」というメッセージも言葉選びにやけに迷う。結局普段の自分なら30分もあればできたことに1時間か1時間半使って日が落ちてくるころにカフェを出た。
 
 Lyonのような大きな町で、買い物など、人に触れる機会もそうない僕は、この日はよく人に絡んだので、チャンスがあればインターネットカフェのことも聞いてみようかと思っていた。手紙を書いたカフェを出る時に店員に尋ねてみると、わかりやすく一つインターネットができる場所を教えてくれた。 
 インターネットは、どうしても…というわけではなかったが、教えられた通り行って見つかると、「せっかく教えてもらったなら」とその気になった。インターネットではEメールのチェックと、ミクシィをやった。3時間くらいやってすっかり夜になってから町を出た。 

 1月8日昨日は、慌しかったというか、なんというか、感覚が自分じゃなかった。次から次へと新しい思惑が興ってきて、それによって駆られる。迷ったり考えたりしている余裕はない。すごく不思議なかんじである。今日はもう忙しくないが、同じ感覚が続いている。) 

 
 脱線したら大変な脱線になってしまった。テーマをコンスタントに扱えないのは特定のことを知りたい読者の方には読みづらいかもしれないが、これからも時々状況報告など交えて書き進めて行きたいと思う。これの良いところは、僕のテンポが独り走りせずに内容がとても自然な流れになるということだ。
 この執筆の目的は何か特定のメッセージを伝えるというものではにない。読者自身が、自己の内面で自分に関心のある事柄についてこの旅の話を道具にして、内省する。強いて言えばそれが目的かもしれないがそうなるとこれは、極めて任意の営みとなる。僕の書くことが、読者の方の内面的充足の切っ掛けになるならば、僕にとってこれ以上にうれしいことはない。

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