2009年12月26日土曜日

『今できる不食総括』 13

◆旅Ⅱ '07 10月18日~12月7日


 秋も深まっていたので、早く南へ、と、残っていたお金をはたいて南セルビアのニーシュまで列車を使った。小銭で好物のキットカットなど最後の買い物をし、食べる。また無銭状態になることを覚悟して、気を引き締めて南東にのびる道を選んだ。
 ギバラツを出なければならなかったのも、あそこでは不食の追求はできないこと、そして、いつまでも不食を放っておけなかったことが大きい。
 それだけじゃないが、いつも出会いなどで人生の新しい舞台が生まれても生かせないのは「不食」が抜けなかったからだ。スイスのチューリッヒ、ナットでも、次のトローラー農場でも「不食」が背後で動いている。僕は「不食」という呪いにかかっていたのだ。2004年11月からずっと…。  

 しかしギバラツを去ってからはずっと暗い気持ちだった。「神様」というものを今とは違う形で意識していた当時は、自分のわがままを神様は許さないかもしれない…、今度こそは。と、天罰が下ることも覚悟して旅を続けた。他方やっと「不食」に向き合える、これこそ自分のやるべき最たるものだ、と少しほっとする自分もあった。一日一日、考えることは違ったが、ブルガリアの終わりに日本人の世界一周旅行者ミチさんという人に遭うまでは基本的にふさがり気味だった。
 季節の影響もあるかもしれないがブルガリア人に声を掛けられることはほとんどなく、家などに招待されることはなかった。更には食べ物の少なさが試練だった。よく食べたのはブルーベリーのような大きさの、茨をもつ植物の小さな実と、クルミだった。あとは町にくるとコンテナをのぞき古いパンや食べかけのサンドイッチなどを取ったが、ブルガリアは、町でも大した食べ物はみつけられなかった。覚悟した通りの、ひもじい旅になった。
 
 途中毛布一枚では足らなくなった頃、運良く目の前に現れたコンテナの上にまだ汚れていない毛布が置いてあって、もらった。一度か二度雪が降ったこともあったが、屋根下を見つけることはセルビアと同じであまり難しくなく、困ることは少なかった。基本的には毎日、日が落ちてきたら自分にこう聞く:
 「もう寝場所があったら入ってもいいだろうか?」 
 そのとき「まだ十分に歩いていない」とか「腹が減って町まではいってしまいたい。」というならまだ歩き、自分が満足するようできるベストを模索した。時には町まで歩くことに後悔し、時には歩かないことで後悔した。  
 食事のリズムというものはなくなっていった。毎日、町にいればいつのまにか食欲が湧いていたり、町も何もなければ食べることを忘れて歩いた。でも自然界の食べ物というのは気楽に取れるのでつい手が伸びるのだった。

 ブルガリアではクルミを千個くらい食べたかもしれない。クルミの味を追求しつくしてついには腐ったクルミの独特な味に旨みを認める自分がいた。程よく腐った(酸化した?)クルミは、うまいのだ。見つけるのはなかなか難しいが…。
 2009.1.13  
 そんな、実に暗いブルガリアだったが、それがアジア・アフリカを一通り旅してきた自転車のミチさんに会うと少し変わった。イスタンブールにあるツリー・オブ・ライフという日本人宿が管理人を募集している、と知ったのだ。そのミチさんはその宿に泊まっていた。そして宿の管理人のかおるさんとも知り合いで、別れた後は僕が行くかもしれないとかおるさんに連絡までしてくれた。
 それは僕にとって、予期せぬ「日本との再会」とも言えた。1月からの約10ヶ月、日本語はしゃべっていなかったし、なにより日本とは永久にさようならくらいの気持ちでいたからだ。  
 ミチさんから日本の風をあびる。
 そしてそれに添うように南のにおいもした。アフリカの楽器を奏でてくれると、自分の想像の中のアフリカがミチさんの話とうまく合致した。とても不思議な感じがした。ミチさんは隣町で簡単な食料を買ってきてくれ、インスタントの味噌汁なども恵んでくれた。
 夜もふける頃まで壊れた廃屋の中で会話をした。道端でミチさんに出会ったのは夕方で、わずか一夜足らずの交流だったが、この後の僕は確かに違った。
 「…もしかしたらイスタンブールで日本人宿で働くことになるかもしれない。」 

 それは、ただ漠然とトルコに行くよりやる気になった。そして、僕にとって日本とは何か、反省し始めたのもこの出会いが切っ掛けだったと思う。  

 気持ちが変わって歩いていたせいか、その直後にとあるジプシーファミリーとの印象的な出会いがあった。ブルガリアも終わりのたしかIvangradとかいうところで、巨大な牛舎の廃墟で泊まっていた時のことだ。  
 突然、ガラスのない窓の外からおじさんが顔を出した。ブルガリア語は知らないが、セルビア語と近いことは知っていたので、にわか仕込みのセルビア語で会話を試みると、「家においで」と言ってくれているのが割りとすぐ分かった。
 「うん。」と、広げていたテントなどの道具を片していると、おじさんは放し飼いをしている馬のところに行っている間に警察が来た。
 「ん!!?」
 警察が来るような所じゃないのに、誰か通報したのだろうかといぶかしく思ったが、おじさん、クリスト(Xpicmo)が戻ってくると、
 「警察が取調べを行うからそれが済んだらうちへ連れてきてくれるって」
 と、優しく、また分かりやすく伝えてくれた。一度町の警察署へと連れて行かれた。なにかおじさんと警察がグルになっていないといいけどな…と思ったが、自分の受け取ったイメージではおじさんはうそはついていないし、警察も実に紳士的、誠意的だった。

 警察署に着くと、おじさんと警察が同時に現れたのは単なる偶然だったということが分かった。僕の姿がみずぼらしく映ったのだろうか、“西側人間”の感覚で言えばまずいチーズとケチャップのピザや、塩味のついたひまわりの種をたべな、たべなと差し出してくれた。もちろん僕はたいへん有り難くそのピザを頂く。  

 また1つ、話し忘れていたことがあった。「靴」はどうしていたのかということだ。  
 スイスを出た時は日本で出発前に買った安物の登山靴と、トローラー農場用に小父がくれたサンダルがあった。登山靴はあっという間に壊れてしまい、十分に暖かくなったイタリアからはもうサンダルで歩いていた気がする。サンダルの良いところは、靴下が不要になり、洗濯の手間が省けるということだ。なので夏はもっぱらサンダルで歩く。  
 クロアチアだっただろうか、ついに小父のサンダルもかかとの部分に穴が開いてしまった。そうなることは十分前に考えていたので僕はイタリアにいた頃から靴問題を熟考していた。自分には日本でわらじ(草鞋)をつくった経験がある。親の営む生活塾の活動の一環で、わらじ作りをよく知っているご年配の方をお招きして教えてもらったのだ。
 イタリアの小麦畑を毎日のように見ながら歩いていた僕は、今のサンダルがへばったらわらじだと、覚悟を決めて、予めわらじをこしらえておいた。すべてつくり方を覚えているわけはなくいびつな形になってしまったが、裸足で歩くよりはマシだろうと思い、バックの中に控えておいた。その頃はまだ初夏で小麦もまだ乾燥しきっておらず、もちろん穂は付いたままで、小麦は捨てるのが罪な気がしてそれも一緒に持ち運んでいた。  
 生の小麦も食べることはできたのだが、イタリアでは他に十分食べ物が見つかるため、意味もなく2、3キロの小麦をもみ殻のついたまま持ち運んでいた。罪悪感だけに、永らく持ち運んで、だいぶ減ってきた頃に思い切って捨てたのだった。
 一度は生がまずいので、森の木の切り出し現場を通りかかった時、木くずで火を焚いてビール缶2つくっつけて、水で小麦をゆでて食べたこともあった。やっぱりその方がおいしかった。  

 話が逸れたが、その小父のサンダルに穴が開いたとき、僕はむしろ喜ぶくらいに、わらじなんか履いて旅する自分を自分で面白おかしく思いながら、サンダルは捨ててわらじを履いた。履いた当初はばっちしだ。いい感じだった。
 しかしこの後500mくらいだろうか、僕はなんと穴の開いたサンダルを取りに戻っている。1kmも歩かないうちに足が痛くていたくて歩けなくなったのだ。  
 さすがに、あせる。
 でも痛くて履いてられないわらじを脱いで、裸足でサンダルを取りに戻った時人に見られていて、さぞかしおかしな姿だっただろう。今でも思い出すと、自分ながら思わずふき出してしまう。  

 急に履くものがなくなった僕は、穴の開いたサンダルで歩きながら至急でどうするか考えた。そうして思いついたのがタイヤのゴムべらをわらじと足の間に挟めばということで、わらじの上面にゴムべらを挟んでみる。
 よさそうだ。しかしそうこうやっているうちに上面だけでなく下面にもゴムを当てた方が…と思い立ち、結局わらじ全体に、ゴムを当てる感じでわらも何も見えない真っ黒なサンダルになった。そうしたら使えそうにはなったが、そこまで来るとわらじを苦労して編む甲斐がなくなり、ゴミに捨てられたビーチサンダルや靴などの底を使って、タイヤゴムとそれで自分で旅サンダルをこしらえた。  
 タイヤゴム―――旧ユーゴスラビア圏では道端にも落ちている―――は正解だった。
 道路との相性がよく、グリップがよく効き、また足と底が離れないように伸縮性がピタッと足を固定してくれる。ただ雨が降ると滑りやすく使い辛くなる。 しかしともかくタイヤゴムとビーチサンダルなどの中敷を組み合わせて歩ける靴はできた。見た目は僕にとっては自然素材であるわらじよりは落ちるのだが、歩けないことには旅も始まらないので、自己開発の「旅わらじ」に誇りも感じながら歩いた。

 一度こしらえれば最低でも500kmは歩けた。500kmを超えるとバンドが切れたり部分的に歪んだりして補修が必要だが、最初がしっかりできると1000kmも十分にもたせることができる。イスタンブールに行って再びスイスに戻るまでに4回位この旅わらじを作ったが、機能面では抜群である。冬は保温の問題が出てくるため、更なる工夫が必要になる。
 ゴムのひもがちょこちょこ突き出ているいかにも自作の履物を見ると、人は僕が浮浪者と思っても不思議じゃない。このブルガリアの最後もそうだった。このブルガリアの最後もそうだった。みずぼらしいジプシーにお家へおいでと誘われたのだ。

 警察署での取調べが終わると親切にもジプシーの集落まで連れて行ってくれた。クリスト(53?)の家は最も手前にあった。車から降りると家の中へ招待された。窓や戸など、それなりにきれいなものが使われているが、素人の手でやったのは一目瞭然だ。ジプシーが人に金を出して頼むなんてしないのが普通かもしれない。
 家に入って知り合ったのは痩せているがどっしりと頼りがいのありそうなクリストの妻と、17歳の息子、16歳の嫁と2歳くらいの孫。すごくいい人達であることは目で見て分かった。
 純粋な目つき。綺麗な笑み。気になるのは彼らの物質的な貧しさだけである。

2009.1.14  
 残念ながら思ったよりセルビア語は通じず、多くの時間を沈黙にて過ごした。この日は一日中雨が降っていた。家に招かれたのはよかったが、かえって何もできなくなった。動けないときやることは沢山ある。歩いて前進することが一番の仕事だが、考えているとやることはいくらでも出てくるのだ。
 「いいかげん自分でテントを作ってみようか」とアイデアが浮かんだり、旅わらじの補強とか服の修繕などである。しかし下手に人の家にいると肝心の仕事に集中できない。そしてこのクリスト宅では結局2泊した。雨がやまなかったのだ。雨さえやんでいれば次の日の朝にも出発していたが、暗く荒々しい雲行きを見ては無難にもう一日居させてもらうことにした。
 日本とヨーロッパで大きく違うのは遠慮という配慮だ。この時も雨の中出発するよりは、有り難く居させてもらう方がクリストにとっても望むところのように思われた。当然、滞在した2泊の間に2、3度食事も出された。
 パンやレンズマメの簡単なスープ、そして家畜の腸か何かの湯で肉。
 その食べたことのない肉はゆでただけで、塩を付けて食べた。まずかったが腹に収まることは確かだ。僕は居間にあったソファー兼ベットのクッションをベット用に与えられたのだが、3日めの朝、気付くと床にはクリストとその妻が寝ていた。  

 「ベットを僕に譲って彼らは床で寝ているのか!」  
 
 クリストはその名前からしてクリスチャンだったが、居間には一つ、小さいがとても綺麗なイエス・キリストの肖像画が飾られていた。まともな会話は成らなかったが、クリストの心はすごく清らかな気がした。50そこそこでおじいちゃんという感じの老化の早いジプシー達だが、彼の人生は十分に充実している、そんな気がした。  
 3日目、まだ雲行きが怪しかったが、僕は多少無理をしてクリストを後にした。背後からは他のジプシーの子供達が駆け寄り、お金をねだった。僕にはお金は少しもない。
 「ネーマ、ネーマ」(無い無い)
 と言いながらも、たまたまポケットに入っていたスイスフランやセルビアの小銭を出した。しかしこれをすると後からもう一人やってきて、
 「ボクにも!」と。
 もう本当に何もないので断ると、石を投げられた。  

 それから1日2日でSvilengradという国境手前最後の町に着いた。連日の雨でMaricaという川が氾濫し、もう少しで持っていかれてしまいそうな石積みの橋を渡ってトルコ国境へ急いだ。途中は気温10度以下の中、浸水して通れなくなった道路を100mくらい、ズボンをめくり上げてじゃばじゃばと裸足で渡ったりもした。
 しかし、苦労の甲斐はなかった。国境も目の前、道端に警察がパトカーを止めている。近くまで来ると一般車両を止めているのが分かった。行ってみれば川の氾濫で国境が閉鎖なのだとか。
 Svilengradから10kmくらい例の浸水した道路など渡ってきた自分だったが、そうなってはやむ終えず一度ギリシャに入るしかなくなった。実はブルガリアのビザなし滞在可能期間はそれまでの国とは違って30日で、寒さや精神面でペースが落ちていた僕は350kmのブルガリアに26日くらいかけていた。ちょっと焦ってSvilengradに戻るとそこからすぐギリシャに入った。28日目のことだったと思う。  

 ギリシャに入ってからもなかなか国境が開かなかったため、結局うんと南、エーゲ海沿岸に近いセクションまで僕はギリシャを歩いた。ギリシャに入ったのが確か11月21日で、トルコ入国は12月の3日だった。  
 ギリシャはEU加盟ということもあって再び存分に食べ物があることを期待した。いつも「不食するんだろ?食べるなよ。」という内なる声との戦いだが、ひもじい思いで旅してきた自分の食欲は抑えられるものじゃなかった。
 ギリシャからは急に緑が減り、民家や道路など明らかにはなやかになったが、町は少なく初めは満足な食べ物はなかった。食べ物が無ければ無いで1日くらい平気で歩けるようになったのもこの頃だが、Orestiadaという町で夜を越したしたとき、食欲が全開になった。
 食べ物の気配があると猛烈に食欲が湧いてくるのだ。町の外れの崩れた建造物の中に荷物を置き、真夜中、巨大ねずみともなって町のコンテナをあさり回った。ケース入りのチョコレートやクッキーやらなんやら、ジャンジャン見つかった。大きなバックにそれを詰め込んで戻ると、ねぐらで食事に耽った。キーンと寒かったが空は満点の星、すごく美しい夜だったのを覚えている。ブルガリアは初めの頃まるで太陽が顔を出さず、雨天も多かったのに対してギリシャでは寒かったが昼も夜も快晴に恵まれた。
 そして何よりゴミであろうが色んな味のものを腹いっぱい食べられるという満足感。まるで食事が生きがいのようだった。「不食」という、向き合うべきものがあるにもかかわらず。  大した出会いもなく順調に歩を進めていた自分はトルコに入国した。
 この国もまたこれまでの国とはまったく違う、特別な意味を持つ。イスラームだ。
 小学校の4年間をマレーシアで過ごしている自分は、またイスラム教の世界を拝むことができることに非常に期待した。トルコは日本人であればビザなしで3ヵ月滞在できるということも、自転車世界一周のミチさんから聞いているので心配もなかった。
 そして自分は日本とスイスの混血、僕はスイス人よりも日本人よりもうんとトルコ人と似ている。このトルコという国に親近感を感じずにはおれなかったのだ。 だが国境は歩いて渡らせてもらえなかった。兵隊がいるから危険ということで、トラックのあんちゃんをヒッチした。自分から車を止めることはしないのだが、このときはやむを得ずすると、おじさん、イスタンブールまで行くという。ただ国境を越えるだけと思っていた自分はだが、そのおじさんの乗り気に便乗し、易々と230kmトラックを使った。
 後から思うとやはり自分のポリシー“歩く”に反する点と、予定より早くイスタンブールに着いてしまったのがよくなかったが、この時は日本人宿のことといい、期待感の大きさといい、感情的な自分が止められなかった。  

 僕は熱くなりやすく冷めやすい性格があるが、早とちりすると大概いつも失敗をする。この時もそうだった。予定というか予想では日本人宿の到着は12月の中頃、とミチさんとは話していたが、例によって4日には着いてしまう。ミチさんから連絡をもらっている宿は訪ねて初めて知ったが、すると早すぎるのが申し訳ない気がして一通り話を聞いたらまた一週間後くらいに来ます、ということにして宿を出た。ではその1週間、突然決まった1週間というなんにもない時間をどう過ごすのか…。その辺りの心の準備ができていなかった。そしてそこはこの旅でも最大級規模の大都会、イスタンブールである。
 失敗だった。3日間なんとかやり過ごして4日目には耐えかねて再びツリーオブライフを訪れた。

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