2009年12月26日土曜日

『今できる不食総括』 5

失敗のスイス   2005 1月~5月

 「不食」にいわば“とりつかれた”頭でスイスに行った僕が、まともなことができるはずもなかった。しかし当時は「不食」という思想を知ったことが思考のブロックになっていることにも気付いてはいない。今から見れば、当時すでに「不食」と取っ組み合わなければならない運命が決まっていたのだが、当時の自分の目のままでこの時期を振り返ってみたいと思う。一つ付け加えておくと、「不食」という思想を受け入れた時点でそうだが、大学に入った頃から既存の認識や常識に頼らずに新しい体験を求める自分があった。 
 
 2005年の1月、スイスに行く前に心の里とも言えるマレーシアを訪れたときにちょっとした詐欺事件にあっている。見知らぬマレーシア人を信用して、クレジットカードも持たずに現金50万円余りを持っていたことが災いした。
 マレーシアは、8歳から11歳までの少年時代の盛りを過ごした国で、当然特別な思い入れがある。しかし世の中を知らない22歳は、道端で声を掛けてきた女性2人についてゆき、東南アジアで日本人の被害も報告されている“いかさまトランプ詐欺”というやつに遭った。50万近い金を騙し取られている。実に日本を出て3日後くらいのことで、それによってマレーシアを旅するお金はなくなり、チケットを早めて予定より20日間くらい早くスイスに着いた。
 スイスの親戚はそれでも温かく迎え入れてくれたが、自分の頭は詐欺の当惑で一杯だった。はっきり言ってスイスで生活を始められるような状態ではなかった。一番良いのは、すべて諦めて日本へ帰り、地元の相模原で、あえてなんにもしない1ヶ月くらいを送ることだっただろう。でも僕はそれも自分には許せなかった。
 ショックな事件のあとに慣れないスイスでの日々。それでもなんとか頑張ると、ルッツェルンの中華レストランの厨房助手として仕事が見つかった。面接に行くや早くも採用され(日本で少しだけバーミヤン(ファミリーレストラン)で働いた経験を誇張したら、通った)、ユースホステルに泊まりながら仕事に通う日々がはじまった。そして頑張って部屋も見つけて一つひとつが収まっていくかと思った矢先、料理長に断られてしまった。
 実に気さくで明るく、ユーモア楽しい中国人だったが、マレーシア詐欺の余韻とその2・3ヶ月のあわただしさで完全に落ち着きを失って、本来の自分が出せず終いの僕だった。タンと一言ったその料理長も自分の助手を選ぶだけあって、僕の内面的な目的意識のあいまいさ、不確かさをみてとったのだと思う。「君はやっぱりだめだな...」心を開ききれなかったことが不信感を生んで、そう判断されてしまった。最初の一週間くらい実にいい感じであったのに...。

 この中華レストランではねられてしまった後は、さすがに力が残っていなかった。頭だけ、「仕事探さなければ、仕事探さなければ」と考えるが、体が動かない。本能的にもうだめなことを分かっていたような気がする。2週間くらいの試用期間で首になってしまった僕は2005年3月上旬から何もせずに過ごした。親戚とも連絡を取らなかった。知人も友人もいない。
 小さい頃からスイスに来るたび夢だったスイスの自然散策に出かけたり、毎日、ソーセージやヨーグルトといったスイスにしかないクオリティーを存分に味わった。仕事はないのにあるとき思いきって自転車を買うと、それからは周辺の湖はすべてぐるっと回ってみた。こうして思いだしてみても、いい思い出だ。東京育ちの、自然に飢えていた人間の目には手なずけられた人口的なスイスの緑も、美しく映った。(今は少し違う感想である。)
 
 5月も半ばになると、物価の高いスイスの生活でとうとう貯金が底をつくのが分かった。日本帰国に決めざるをえなかった。200万円くらいあった貯金はマレーシアの詐欺とスイスの生活で4分の1くらいになっていた。もう日本に帰るしかないな。そう思った。しかし。
 3月上旬からの2ヶ月ほどをなにもせずにのんびりと過ごした自分の頭には、とある発想が起こった。
 「日本まで、歩いて帰ろうか。」
 全財産50万ほどの者が、何の準備も整っていないのに、現実性はさておいて発想だけ起こったのだ。
 「・・・そんなバカな。」
 当時の僕はそれをすぐ打ち消しにした。狂った考えだとして。しかしそれを実際にやろうとするのが、それから2年後、2007年4月のことである。実際に達成したわけではないが、今ではそれは十分可能だとも思っている。果たしてそれは、本当に狂った考えだったろうか?
 突飛な性格は僕の生まれ持っての性質だが、今日では、自分ながらその発想力に秘められた可能性に期待している。ひらめきは無意味には起こらない。はっきりと言える今日である。詐欺事件から落ち着きを取り戻した自分はだが、次は帰国したらどうするのかを考えなければならなかった。でも今では3月上旬からあえて何もせずにスイスを享受するゆとりを持とうとしたことは、正解だったと思う。その中で精神を落ち着けて、日本に帰ってからのことをいろいろシミュレーションすることができたのだ。それだけの時間を独りっきりで過ごしたのも、人生で初めてだった。
 「日本に帰るが相模原には戻らない。違う日本を見よう。京都辺りに行こう。」
 そう思った。2005年5月末に航空チケットを予約した。


2009.1.6
失敗の京都  2005 6月~2006 3月

 日本に帰るや、スイスで買った自転車を使ってそのまま成田から京都に向かったのだが、京都の生活も同じようなものだった。
 半年間で自分の貯金をむさぼり食った自分は多少緊張を感じてアルバイトに精を出し、節制の生活を始めたが、どうも調子がおかしい。新しい人々との出会いを期待しなかった。自分の部屋にテレビや家具を用意することさえ空しい気がした。
 そんな僕はとある運送業者で半日だけの仕事と、週末には派遣会社のアルバイトスタッフをやるというスタイルをとった。平日の午後は勉強や思索のために空けるようにした。だが、概して京都の生活は悪くなかった。
 名所めぐりとか京都弁を知るとか恥ずかしいほど手をつけなかったが、確かに東京人との違いは感じられたし、トラックで電線を運ぶという新しい仕事も面白かった。自動車免許を取ったのが遅かった僕は、運転の練習があまりできずにいたのだが、この運送のバイトをもって「運転はできる」といえる自分になったことも大きな進歩だった。
 
 しかし、問題は違うところに存在した。友人、知人がいない生活、マテリアル(物質)を限界まで減らした・切り詰めた生活。一日の多くの時間を思索や勉強に費やし内に籠る...。自分の部屋には、椅子やテーブル、本棚すらなかった。CDプレーヤーもない。あったのは、防寒用の布団一式と、電気ヒーター、小さなちゃぶ台くらいである。あとは京都大学の参考書などがあった。京大受験を考えていた。
 言うまでもなくこの京都の生活でも不食がテーマだった。
 1日1食を試してみたり、決まった時間に食べることをやめて気分に任せてみたり質素な食事をとるようにした。断食も何度か試した気がするが、成功した記憶はほとんどない。無理をして夜中にコンビニへ駆け込んだり、偏食になって甘いものを食べ過ぎるようになったりした。ただ大学時代と違ったのは体を動かす仕事をしていたことで体調はよくなっていたことだ。カロリー計算などももちろんやった。
 
 なぜそのような生活をしたのかについて補足的に説明する。 大学をやめたとき、僕は友人や知人にほとんど連絡をしなかった。多くの友人の前から僕は突然いなくなったのだ。やることやり尽くしてもうまく行かなかった大学生活に完全な決別をした方がいいと思った。
 大学時代にもすでに相当の人生苦悩があった私は、自分の“人生を変える”には、場所はもちろん、人間関係も一掃するしかない気がした。だからほとんどの友人は僕がスイスに行ったことを知らない。もちろんその後も連絡はしなかった。そんなことをした僕はスイスを去る時、同時に所有物ともおさらばをした。スイスを去る直前に、日本から船便で届いたダンボール(大)7・8コの荷物があったが、どうしても手放しがたいと思ったものだけダンボール一箱につめて、残りはスイスで廃棄した。洋服・小物・何から何までバッサリ捨てた。
 15の頃から書き溜めていた日記帳の数々も思い切って捨てた。物であろうとなかろうと、そうやって、「手放す」ということをしたのだ。仏教の教えの言い方をかりれば、「執着を手放す」ことをできるかぎりやった。これは家族にあった仏教に派生する日本の新興宗教の影響もある。自分なりにそれを試たのだ。
 
 人間関係についていえば、僕には親友がいなかった。それなりに仲の良い関係はあったにはあったが、こいつとはなんだって喋れるというのは“なかった”。言い訳をすれば僕自身日本人になることに大変苦労があったことで、早くから孤独を生きる覚悟(参考:瀬戸内寂聴)を決めていたことだ。このことについてはまた追い追い触れると思う。
 
 2006年3月、僕は突然思い立って10万円だけもってあてのない放浪に出た。会社には無断欠勤をし、3日後くらいに戻ると、アパートには母がいた。
 会社に迷惑、親に迷惑。それは精神的に病み出した頃の出来事だった。
 「消えてしまいたい。」
 「できるものなら原因不明の形で死にたい。」
 そんな願望が強くなっていった。 
 「親に申し訳ない。相模原に帰ろう。」
 そう思った。

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