私の少年時代
いまさら書くことでもない、というくらい日記にはこのことについてさまざまなことを書いてきたと思うが、「まとまった内容」を書いたことは、実はあまりないと思う。 1年9ヶ月、塾講アルバイトを通して子供たちと接してきた中で、自分の少年時代の感覚と、この国のごく普通の子供たちの、物事に取り組む姿勢・感覚との間に「大きなギャップ」を感じている。そのギャップをなんとか埋め合わせるには、自分はどんな気持ちで少年時代をすごしていたかを思い出してみる必要がある気がしたので書いてみたいと思う。
まず、幼いとき私はエネルギッシュで、学校は、いつも、本当に絶えず、やりたいことにあふれていた。昼休みは一分でも長く遊ぼうと、お昼ご飯の時間が終わるとボールをもって一番に校庭に駆けていった。そのためにはトイレにも行かなかったりした。もちうる体力、元気、想像力。全部使っていたような気がする。でも遊び好きだといって勉強の方がいい加減だったわけでもじゃない。どの授業も、精一杯がんばった、そしてなにより、楽しかった。本当に、学校生活は楽しかった。友達との交際が楽しかったというよりは、周りはあまりかまわず、自分の遊びの創造に夢中だったんだと思う。
家では兄弟、特に兄と色々な遊びを自分たちで創り出しては夢中になっていた。 たぶん、創作に対する意欲や自分の中で物事をこなしてゆく、そしてその手法を高めてゆく意欲が並外れて強くて、子供のやりたいことをなにより優先する母の教育が私のその一面を大いに助長したんだと思う。
でもそうして自分の能力を存分に発揮して過ごした時期にも、生活の中にはある緊張が張り詰めていた。その緊張を感じるときは私は畏縮し、それまで存分に生かしていた自分というものをとことん失った。 それは、父からくるものであった。
私にとっては、寡黙な父が、なにより怖かった。何を考えているのか分からないのだ。学校などの父には見られていない場でも、父に変な情報が伝わる危険の少しでもある行いは、避けた。本当にバレない、と分かるときだけ、冒険した。冒険してかえって事が知れてしまうのであったが…。
父とは心の通じ合いがとても少なかった。家では、父がいるのといないのとで、緊張はまったく違った。たとえば日曜日と平日の昼では家の空気は全く違った。日曜日はよく外に行って遊んだ。いたずらはたいてい平日の昼にやらかした。逆に、心を許して何か少しでも話をしてくれたときの父の言葉は、今でも鮮明に思い出せるくらい強く、印象的に残っている。時折、ふと、なんでもないときに昔のそういう父の言葉を思い出すときがある。
この、父から来る緊張感は、もちろん勉強に励む力になったり、なにより真剣に物事に取り組むという今の姿勢を築いていったのだと思うが、私は、今塾で子供たちを見て、自己比較してみたところ、その緊張によって精神的に「虐げられていた」自分にも気が付くことになった。塾の生徒の方がはるかに、人に対して心を許すのが上手で、私は自分に心を許してくれる生徒の、細かいサインに気づかず、生徒の期待を無残にも裏切ってしまうところがあるのだ。あの、父の圧力がもうちょっと違う形で、幼少からもう少し人に心を許すことをしていたなら、ぜんぜん違うだろなと思うのだが。人間関係の方ももっと学ぶことができただろうと思う。
その緊張感は、父という人間をもとにして、生活のなかで、食生活や信仰に顕著に表れていたと思う。厳格な玄米菜食や宗教Mの信仰と実践。どちらも、父の性格というか人間性を具体化したようなスタイルのものだった。
まず、玄米菜食。これは、食べ物一つ一つに細かく健康、不健康をラベリングし、その基準のもとに生活を厳しく管理・統制するものだった。砂糖は不健康、特に白砂糖は食べてはならない、とされた。砂糖を「毒扱い」したこと。これは、市販のお菓子のほとんどはもちろん、おばあちゃんがつくってくれた煮物に入っている甘味料としての砂糖までも含まれた。
友達のうちに行ったときの楽しみの「おやつの時間」も、自分の味覚(舌)は欲しているのに、頭はこれを毒と考え、避ける、という「矛盾」を生み出した。そのなかで、「感覚」は信じてはいけない、常に頭で、理性的に物事を判断しなければならない、という「道徳」が生まれ、強化されていった。これは幼くも小学校入学の頃にはすでにあったように思う。
食生活の違い。これは多少友達づくりの障害になったと思う。お弁当の時間は友達に食べているものの違いを指摘される前に、「急いで」食べた。お弁当をみて、「おまえこんなの食べてんのかよー、うぇ、まずそ。」という反応を示す子はさすがに少なかったが、違いを意識されるだけで嫌だった。
それが何より、本当に、『恐怖』だった。 なぜ恐怖だったか。それは、説明ができなかったからだ、と今になって思う。親はこれが健康だとしてこういう弁当を作ってくれている、僕のお父さんやお母さんからしたらみんなの食べているものは良くないものだけど、みんながおかしいということもできない、逆に親を疑うことなどもちろん、子供としてできるわけがない。 つまり、なんで、いったい全体なんで、自分がみんなと違うものを食べているのか、自分でも分からないのだから。 ただただ、そっとしておいて欲しかった、というのが今になって言葉にできるそのときの気持ちだ。だから、こちらからも、クラスの仲間が気づかないように努力した。それが、「弁当は急いで食べてしまう」ということだった。教室の隅で、あまり大勢の友達とは一緒に食べないで。
しかし私は更なる万全を尽くした。まったく一人で食べているのは逆に目立ってしまうから、友達一人だけ机を合わせたりして、とにかく弁当のことが問題にならないように、注目されないように、必死だった。弁当の時間は実にプレッシャーだった。「早く昼休みにならないかな…」、とか、4時間目の終わるころには、「はあぁ~、弁当の時間かぁ~」と憂鬱になっていた気持ちを今でもはっきり思い出すことができる。
(話がそれてしまったが、今こうして書いた中で、学校における食生活について、さらに書きとめておきたいことが出てきたので、もう少しこのことについて書きたいと思う。)
小学3年生のときは、幸い自由席で、教室のどこで食べてもいいので、アソウ君という友達とお弁当を食べていた。彼は僕の弁当をみて、(においなども独特のものがあった)吐き気を誘うらしく、彼の体が、嘔吐反応を起こしていたことが、今でも忘れられない。一回のお弁当の間にその発作を何度も何度も繰り返していた。 でも、今思えば、みんなはすごく優しくしてくれた。あるとき、これも小学3年生だったが、急いでいたせいか、弁当をひっくり返してしまったことがあった。すると、みんなが、弁当からおかずを分けてくれた。ウインナーや揚げ物だったのを今でも覚えている。
うれしかった。 みんなの好意がうれしかったが、それによって自分がうまいものを食べられるという卑しい心もあった。
しかし友達のそういうやさしさ、「気遣い」、それを私は自分自身、最近の一人暮らしを通してこの社会の人間と一人で関わっていく中で体得したことだ。昔もやったかもしれないが、あくまで「形式」だったと思う。昔そういう行動をとったとしても、そうするべきだからという観念によってやったことだろう。
今なら、気持ちよくそういうことができる。心をこめて。
私はこうして、学校で他の友達との「違い」を過度に、まったく必要以上に、意識しなければならなくなった。 同じ人間が、同じ「人間の食べ物」を食べている。
私は豚のえさを食べていたわけではない。
芋虫をお弁当に持ってきて食べていたのでもない。
自分にとって説明の付かない「違い」。その違いの間で引き裂かれるような立場を、私は幼少時代、長らく経験した。 今思う、そういった我が家に特有な信仰や生活も、まだ家族の中で一丸となって心が通じ合っていた上でのものなら、違ったはずだ。もっと自信を持って自分の弁当をみんなにみせては、必要があれば、「うちはね…」と、誠意のこもった説明もできただろう。父と心が通わなかったこと。それが私を孤独にさらした。
そういう中で、自分に降りかかる問題に対して、 「問題は自分の中で消化する」 という今につながる姿勢ができていった。 「食事」一つをとってもこれほどの苦労があったのに、M教の信仰は、友達にはもっと言えないものであった。打ち明けた友達は、一人二人、居たには居た。でもこれこそ自分は、自分の親がやっているから自分もやっている、何が正しくて何が間違っているなんて何も分からない年ごろなのだから、どうにも説明の付かないことだった。
いとこのS君にM教の説明をしたこともあった。でもほかの普通の友達に同じように説明ができなかったのは、やはり自分でも、M教の信仰に自信をもっていなかったからだと思う。実際、私は兄弟の仲でもとくに、M教の基本的な実践である「おきよめ(手かざし)」(1時間から2時間要する)という活動が嫌でしょうがなかった。
M教は私の世界観に大きく影響を与えた、人生にとって重要な要素の一つに違いないが、これ以上書くこともないと思う。というのも、食事のこともM教のことも、本質的には同じだと思うからだ。私が思うに、父は、普通の家族生活に加えて、それらの活動を通じて子供を教育しようとした。それが父にとっての「精一杯」の子供との関わりの持ち方だったのではないか。男性の中にはもっと放任で、子供と関わろうとしない男性も多いだろう。
きっと、父が心を開いて人と話をすることができない、あるいはそうしようとしないという性格は、父の父、または父の母から受け継いだものだろう。父も、ある意味ではきっと、私と同じような思いをして大人になっていった。私が、今、なかなか人に心をゆるすことができない、つまり人を信用できないというのと同じような問題を父も抱えてきたに違いない、と思う。そのことについて少し考えてみたい。
人を信用できない・心を許せない、というのは裏を返せば、信用しなくても・心を許さなくても、良くはなくてもさして困らない境遇にある、ということだろう。あふれる人間の中でも、ふと見渡してみて、私も、父も、諸能力に関してはとても恵まれていると思う。私は体力も頭も、精神力も、人並み以上だ(と自分では思っている)。生活でも、料理・洗濯・掃除・修理など、だいたいなんでも“自分で”できてしまう。苦にならない。生活の知恵もある。この3年間、経済的にも独立した大学に通いながらの一人暮らしができたのは、そういう、なかなかないがあったからだ。
反面、私はなんでも“一人でこなす”という癖がある。他人が介入すると、むしろやりにくい、と感じる。自分でいろいろやってしまったほうが手っ取り早いし、なにより労力がかからない。例えば、生活の中で必要となってくる家具などの修理がある。ほかには自転車だったり電化製品だったり家自体の老化現象だったり、修理の必要なものはそこらじゅうにある。
ふつうの家庭なら電気屋さんとか、水道屋さんとか、とにかく専門家に頼んで、無難に、そしてきれいに故障を直す。でも私(又私の家族)は洗面器でもエアコンでも家具でも、自分でどうにかならないか、とまず考えては、いじってみたくなる、いじってみる。そして本当にどうにもなりそうにない時や、わからなくて疲れてしまったときは、仕方なく、しぶしぶ、金を出して専門家に頼む。
これほど、「自分でできるんじゃないか」という期待が大きいのだ、私(私の家族)は。 『他人に任せる』ということ。程度の問題だが、そのことに責任逃れしているような面は確かにあり、私はそれが好きじゃないのだと思う。高度に分業化された私たちの社会であるが、私はこの社会のあり方に強く疑問を持っている。「責任逃れしてる」と思われるのが好きじゃないのかもしれない。
責任感がべらぼうにつよいからだ。(父がそういう人だから、私もそう育った。)これも私の場合、人並みじゃないと思う。
この、「責任」という問題について今の自分が真っ先に思い浮かぶこと。それは『子供をつくる』ことの責任だ。これにはとてつもない責任が生まれる、と私は思い、それにつながる性行為というものも、私にとっては今の若者のように安易に扱える対象ではない。私の場合、「コンドームは甘えだ」という議論から始まる。激しい。本当に重大視している。 自分の身体は、今いい感じに成熟している、といえる。結婚だって十分にできる年齢だ。そんないまどき、子供を作ることに関して、誰が考えずにおれようか。私の場合、相手ができたら、そのまま流れにのってしまうと思うから、今のうちにこのことを十分考えておきたいんだ。(性欲というのは考えて制御するものではないから。相手ができたらいってしまうでしょう。おそらく。いや、間違いなく。)
きっと、人間にとって生の最大の楽しみでもある「心と心の交流」。人に心を許した経験がほとんどないために、それが人並みはずれて“下手”で、だまされるとか、自分の期待が裏切られるとか、そういう「不安」のためにそれから逃げてしまう。 本心はそれを求めているところがあるのに。…
父は家族の中に特有な活動を盛り込むことで、子供たちと接する機会を創出した。心の交流まではいかなかったが、親とともに考えたり、行動したりする機会を多くもった中で、私は人間としてまっすぐ生きてゆくための、本当に最小限の関係は持つことができた。そこに、言葉にはできない親からの思いを受け取る気がする。 寡黙な父は、好きで寡黙になっているのでもなくて、そうせざるを得なかった。
ここに母という存在が出てくる。この母という存在も、心を許すという課題を負った父にとっては大変なくせものだったろうと思う。 (この母という存在については、「私の家族」のところで触れたいと思う。)
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