2009.1.28
◆出発地点 トローラー農場帰還
(飛行機内/
ぐっすり眠った。意外とよく眠れた。4時間は少なくとも眠った。到着までの時間はもう3時間を切っている。もう、うんと近い。スイスは、うんと遠い。今出てきたヨーロッパへの郷愁。
そういえば「また会おうな」の一言も言わなかったな、スイスに、そしてヨーロッパに。
さみしくはなかったんだ。また来るって思っていたから。
「考えすぎるな。」
って今は思う。いくら興奮しているとは言っても。来るべき変化は拒めない。変わらなければならないならば、変わるしかないのだ。でも今では日記だってある。旅の感覚をあまりに忘れてしまった時には日記でも見たらいい。
それでも十分に思い出せないとしたら、それはどうしようもないな。
それが、その頭で整理できないほどの違いが、日本とヨーロッパの違いである、…そういうことだ。 興奮気味だ。)
11月11日、日本まで歩いて帰ると決めたそのトローラー農場に到着した。
トローラー農場は谷が一望できる丘の上の方にあるが、僕は丘の尾根から来て、たまたま外出した(2年前と変わらない)白いスバルを飛ばすルエディに遭遇、向こうはちゃんと気づいてくれ、止まって、ハグした。
でも向こうは少し冷静というか、ふつうで、僕の方は完全にハイだった。向こうは生活の方が忙しくて僕のことなんかめったに考えなかっただろう。でも僕の方はこの日をいったい何度思い浮かべたか分からない。こっちの意識は“濃縮”されているのだ。非常に冴えていると言ってもいい。
とにかく初めて会った時のルエディはふつうだった。むしろ一年半前と比べると少し暗いくらいだったかもしれない。2007年に仕事をした当時ガールフレンドとして同居していたドイツ人女性とその息子は農場から出てしまったというし、心を寄せていたよく農場に来た女の子もスイスの別のところに引っ越してしまったという。
ルエディは子供を預かって面倒を見ることもあって、当時いたフロリアンはマイクという同年代の少年と取って代わっていた。とにかくトローラーを取り巻く人間はずいぶんと変わっていた。
でもルエディは僕の2回の手紙から僕を“待って”くれていた。僕はまた働きたいというようなことを言っていたが、それもできるよと言ってくれた。
「そうか。イスタンブール以来の“お金を稼ぐ”チャンスに出会った。なんて恵みだろうか。やろうではないか。」
僕はそう思った。
旅中僕は与えられるチャンスというか、目前に起こる物事の展開には沿うようにしている。いつからか新しい出来事には迷わず、考えず飛びつくようになった。だからこの時ももしそういう流れなら、日本に帰ることやスイスの親戚を訪ねることも少しくらい後回しにしよう、そう思った。
その代わり、全力投球である。自分はここ二度目のトローラー農場で何が見出せるか、本気の勝負、そういう感じだった。旅を経て心身強くなった今の自分なら、日本の親が経営する塾の子供達を今度こそ招待できるかもしれない。
もちろん、それだけじゃない。
トローラー農場で働くことで少しお金が手に入ればよりよい装備で旅の続行だって考えられなくはない。とにかく働くチャンスを得た僕は、また無数にその後の可能性を見出したのだ。
もし自分の希望を言えば最も魅力的な方法はだが置いてあった。たとえば、自分で稼ぐお金で日本に帰るという格好のよい旅の終え方だ。
僕は実はお金を稼ぐことはそんなに魅力的じゃなかった。役所届けも居場所もスイスにはない僕がスイスで仕事をするとすればおそらくトローラー農場しか場所はなかったけれど、お金は別に欲しくなかったのだ。
欲しかったものというか、スイスに戻ることで期待したものというのは約束をしたトローラー農場とスイスの親戚の「今」を知るということだ。それ以外は何もない。それを知った上で、じゃあ自分は何をするのが妥当か、考え、それを行う。その2つを知るだけで僕の旅の方向性は180度だって変わるかもしれない。オーストリアからの800kmを歩いてきたのはそれを知る期待感なのだ。
早速僕は農場の仕事に励んだ。25~30頭の牛舎の掃除・エサやり(朝夕)、そして夏も終わったので牧場の電気バンドの回収などできることはすべてやった。一週間くらい後だったか、一度こんなことを言われた。
「この調子で働いてくれるならこの農場を君にあげよう。」
真面目に受け取るのは難しい、だが冗談ばかりではなさそうな調子でそうルエディが言った。でもその時は僕はトローラーの一角に部屋を借りて住んでいる、畜産専門のルカスという若者がいて、その人がトローラー農場を引き継ぐというようなことを以前に聞いていたので、
「いやいや、(農業はおろかスイスドイツ語だって満足に話せないオレなんて)引き継ぐのはルカスだよ!」
僕はほとんどルエディの言葉をはねつけるかのようにそう言った。でも内心はすごく嬉しかった。
そんなルエディを前には正直であるように努めた。不満や悩みなど他人に心をこぼすことがよりしやすいヨーロッパの気質ではなおそれがよいと思われた。そして僕は自分の旅のテーマ「不食」についてもできる範囲で共有を試みた。
しかしこれが事態を変えた。ある夜のことだ。
ルエディと2人きりだったので「人は食べなくても生きられる」ということについて少し自分の見解を述べた。ルエディは大の大人でいろいろな意味で人生の先輩だ。トローラー農場は普通の農場とは格が違う農場だ。すくなくとも周囲300mは家がない。ぽつんと農場だけがゲストハウスと一緒になっている、ちょっとした見所なのだ。週末には多くの人がやってくる。駅前の観光地図にも載っている。そんな特別な農場を回している人間が詰まらない人間であるはずがない。いろんな方面で尊敬できる人だった。
でもさすがに「不食」という思想は極端だったようだ。
僕は冷静に話をする。だが彼は相手ができなかったのか、話を打ち切るように家の中をせわしなく駆け巡り、しまいには何も言わずに家を出ていって車でどこかに消えた。
「!?」
ルエディという人物が普段から行動がすばやいのは知っている。
「でも、まずいことを言っただろうか?!」
急に僕は不安になった。「一体、何をしに行ったんだ!?」
長期の旅で僕の神経は野生化している。危険を感じると衝動は抑えられない質だ。人間関係もいつも知らない人とだけ交わるので「不信」と「信用」の間をいったりきたりする。その時も少し冷静になれればよかったのだが、僕は衝動に駆られて荷物をまとめ、農場を飛び出した。
辺りはもう暗かったため、その夜はすぐ近くの小屋の屋根下で一夜を越した。急きょ予期せぬ形でトローラを去ることになると急に親戚の元へも行く気がしなくなった。自分の中で「失敗した」という感じだったのだ。
翌朝、荷物はその場所に残して体一つでトローラーに戻って挨拶をすることにした。「脱走」という、過去の癖を再発させてしまった僕だが、自分はその時はそんな悪いことをした気はしなかった。でも相手の挙動が知れなかった僕は自然な恐怖心からの脱走だったのだ。セルビアの農村からの脱走や日本からの脱走とは質が違う。
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