2009年12月26日土曜日

『今できる不食総括』 7

日本脱出  ―カンボジアの戦争からスイスに逃れてきて帰化したSF(スイステレビ局)専属プロダンサーとの出会い―

 京都最後の脱走を含めると3度目の脱走となるこのときはさすがに迷わなかった。自分には財産などないので、一度飛行機に乗ってしまえば日本に戻ることはできなくなることは分かっていたが、飛行機に搭乗した後も心は静かだった。
 「乗ってしまったね。もう取り返しはつかないぞ。」とか「飛行機から降りれば寒さとの大格闘だ。」(スイスは真冬。) 
 などと自分に言ってみる。でも自分のやっていることの意味はよく分かっていた。乗り継ぎ便だったのでほとんど1日かかってスイスに着いた。どこか見覚えのあるチューリッヒ空港を実にすみやかに出ると、空港からそのまま歩いて出発した。
 日本からの自己の追放には成功したものの、これからどうするのだ?全く考えていないわけではないが、それは気分で、スイスに着いてから決めることだくらいに思っていた。だから適当に歩き出した。財布には、なんだかんだ6万円くらい入っている。母が、出発を告白した時、チップとして渡してくれたものだ。でも使うのは惜しいことから、空港から乗り物など使わなかった。 
 クローテンというところにあるチューリッヒ空港はチューリッヒ市街からは15キロメートルくらい離れている。とりあえずチューリッヒを目指して歩いた。雪はなく、寒さもそれほどキツくはなかった。しかし問題は夜だ。テントもシュラフさえも持っていなかった。用意したのは日本のリサイクルショップで安く手に入れたスノーボード着の上下と、70Lバック一杯の洋服くらいだ。(もっともらしい準備などしたくなかった)
 どんな道を歩いたかはもうよく覚えていない。一度疲れて会社か何かのパーキングの屋根下に入ってありったけの服を着込んで休もうとした時のことは覚えている。寒くてほとんど寝付かなかった。チューリッヒ空港に着いたのは夜だったが、数時間歩いてそのパーキングで休むと、朝になり、数時間後には市街地に入った。日本円をスイスフランに替え、スーパーなどで好きなものを買って食べたような気がするが、よくは覚えていない。覚えているのは、駅の待合室で体を温めたこと、そして意外と早く街を通り過ぎてしまったことだ。たしかその日のうちに街を抜けてしまってやっぱりまた街の方に引き返し、人に嫌がられたりすることなく休める少しでも温かい場所を探して歩き回った。結局駅の待合室は何時間も利用したが、怪しまれるのが嫌だったため夜には出た。 
 たしかその二日目の晩だった気がする。早速出会いがあった。チューリッヒ中心部からそう離れていない有名な交差点の近くにドアが2枚あるアパートがあり、一枚目の内側は若干温かいところがあった。歩き疲れた僕はその一枚ドアを入った内側の狭いスペースにどっかり尻餅をついてしばらく休んでいた。
 午後10時か11時くらいだと思う。とたんにドアが勢いよく開き、アジア系の小柄な若者が威勢よく入ってきた。それから2月一杯一緒に過ごすことになる、ナットだ。
 入り口のスペースを半分近く取っているよそ者の自分を見て瞬間驚くのが見えたが、ためらわず丁重に声をかけてくれた。 
 「何をやっているの?」 
 具体的な話はもう覚えていないが、日本から来たんだ、一応スイス人だ程度のことをドイツ語で話すと、なんと、
 「あたたかいお茶でも、飲むかい?」
 と、部屋に誘ってくれた。今思うことだが、実に思い切りのよい、勇気ある誘い方だった。見知らぬ、むしろ怪しくすらあるよそ者を、会って一分足らずの間に自分の部屋に入れるのだから。 

 僕は有り難く温かい彼の部屋に入れてもらった。一日も終わりで、お茶一杯でまた出るので、玄関のライトだけで適当に床に座ってお茶をもらった。おしゃべりは続く。
 なんであんなところ(玄関)に座っていたのか。これからどこに行くのか。僕のやったことは普通のことじゃないだけに、ナットは興味深く話を聞いてくれ、なんとその晩から彼のところに泊まってもよいことになった。 
 彼は、ダンスのプロで、スイステレビ局に専属してテレビ出演はもちろん、ダンスインストラクターもこなす有能な27歳だ。彼のオープンさといい、考えていることといい、たしかにすごかった。なんとマレーシアのテレビにも出演したくらいで、色んなところに行っているせいか、5、6ヶ国語も操る。フランス語圏スイス出身のためフランス語はもちろん、カンボジア語から、僕の聞いた範囲では英語・ドイツ語・イタリア語を実にナチュラルに話す。自分の3ヶ国語なんて大したことないように感じられた。 
 スイスに飛んで早々しばらくの居場所が見つかり、こごえずに済むことになった僕だが、ナットには1つどうしても僕と合わない性質があった。ホモセクシュアルなのである。
 プロダンサーであるだけに、生活のゆとりはたっぷりあって、次の日から彼はつきっきりで僕の相手をしてくれた。チューリッヒではやりの「寿司バー」に連れて行ってくれたり、僕にとっては懐かしく、大好きな中華や、東南アジア料理を食べに連れていってくれた。もちろんすべて彼が出してくれる。彼に会って2日か3日後には、僕にその気さえあれば、仕事探しや役所届けなど、スイスで生活するためのすべてを、ナットのもとで準備できるという考えがたい恩恵に預かったのだ。しかし。 
 僕の方がダメだった。2005年の時と同じで頭では
 「ともひろ!こんなに恵まれているんだぞ!」
 「ここでやらなかったら後で後悔するだけだぞ!」
 「なんで素直に喜べないんだ!?」
 云々。
 でもダメなものはダメなのだ。言い方を換えれば、そこにあった恵みは、僕が欲していたものじゃなかったのである。今思うに、その時僕がダイヤモンドを手に入れようが、一千万円を手に入れようが、僕の中の問題は解決しなかった。たとえ一千万円で世界一周旅行をしても、である。よって、自分を駆ろうとする内なる声は、苦しいばかりであった。だったらそんな恵みない方が、自分のダメさを感じなくて済むからよっぽどよい。当時はそこまで分からなかったが。 

 ナットのところに滞在した1ヵ月間、僕も僕なりに色々試した。ホモセクシュアルになることはもちろん、柔軟体操を教えてもらってジョギングに出て、心が無理なら体から変えようとしたりした。その1ヶ月の間には、同じくホモセクシュアルだが、テレビ局のディレクターに招かれて同連中のパーティーに出かけたり、サンクトガレンにミュージカルを見に行ったりした。ナットは自分のボーイフレンドのことも忘れるくらいそうやって、僕を勇気付けようとしてくれたが、廃人であった僕には何もかもが無機質に終始した。
 2月下旬、パーティーに誘ってくれた例のディレクターから、トヨタ自動車とのつながりで仕事があるかもしれないから、一度お話ができないかという連絡を受け、カフェで待ち合わせをした。
 しかし僕は朝出たナットのアパートからそのまま消えた。そうするより他に仕方がなかったのだ。「僕は本当にダメだから、やっぱり旅を続けます」と、彼を前に言うことすらできなかったのだ。もうそういう社会的礼儀を構う余裕もなかった。
 できることは、今分かるには、温かい寝場所とか、食べ物や服など生きていく上で最低限必要なものを頂く後は、人に変な期待や愛着を抱かせる前に、できる限りショックを与えない形で去ること、それだけだった。荒廃しきっていた僕の精神が欲したものは、金貨でも、愛情でもなかったのだ。欲したのは、それまでなかった無制限の自由、そして、生きることを喜べる心だった。 

 2月27日頃、カフェでの約束を破った後は、小さなリュックひとつで、持っていた母のチップの残り400CHF(スイスフラン)で放浪に出た。幸運にも寒さは緩く、なんとかなった。残ったお金ではスーパーで欲しいままのものを買ってスイスの食べ物を楽しんだ。
 一度は列車でイタリア語圏のスイスに行ってみたりもした。そしてやはり途方に暮れていた。気の向くままに放浪していると、スイスの親戚の住む地域も歩いた。だが彼らを訪ねることはタブーだと思っている。小さい頃からスイスに旅行する度に訪ねた、祖父母の家のあった地域を、空気や自然を感じながら歩いた。そして親戚は訪ねず、そのまま北の方に歩いていった。 
 もともと大した装備はないが、放浪をするにしても70Lのバックパックはチューリッヒ、ナットの元にある。手元にあった400CHFは物価の高いスイスのスーパーの品物と、南への往復列車代であっという間になくなった。
 あとがない。 
 夜は森の小屋にある薪を使って火を焚いたりしたが、よほど日に接近しないと暖かくない上に、飛ぶ灰で服に穴が開いたりした。ナットの元にいたときから春の訪れを感じるような暖冬だったが、それでもさすがに追い詰められていた。 
 ついにお金がなくなったとき、反省する覚悟でおばマリスを訪ねた。ナットを去ってから10日くらいが経っていた。3月9日だった気がする。

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