2009.1.22
( Biel/Bienneにて。
スイスの親戚のところまで距離にして60km。早ければ明後日にも着ける距離だが、どうも体調の方がおかしい。3日くらいまえ足止めを喰らっていたときにゴミから見つけたクッキーの生地を惰性でたくさん食べたことがあった。それからどうも調子がおかしい。
そして明日は天気予報では雨だというから思うように進めないかもしれない。仕方がない。)
夕方頃オタの家を訪ねてしばらくするとオタが妻とあかちゃんをつれて帰ってきた。
「ダメだった。」
と報告する僕は見せる顔がない。予定より早い訪問にオタは対応してくれた。
「そうなるんじゃないかなあと思っていたよ。」
とオタは、家に入って落ち着いてから言った。
僕自身は何がいけなかったのか反省中だったが、失敗したのだから強がってもしょうがない。
それから11日の朝までオタといろいろ一緒にやって過ごした。オタが仕事の日はプラハまで一緒に乗っていって観光に出掛けたり、オタがフリーな日は彼の知り合いを訪ねたりした。
僕は当時、オタのインディアンの話もそうだが、レイム・ディアという有名なインディアンの本に感動していて、「不食」思想など、話せる範囲でオタとつっこんだ話をした。でも彼の知り合いを訪ねると僕は「へんてこな旅人さん」の様になっていて、僕の話をオタから聞いて笑い出す人もあった。
自分が、日本を出る前はどうしようもなかったことも話してみるのだが、
「そういうこともあるわよね~」
くらいに軽くあしらわれてしまった。まぁ僕はたしかに間違っているかもしれないし、そういう無難な解釈で収めようとする世間一般人の気持ちも分からないではなかった。そういう人はそう思わせとけばいいと、それくらい思う余裕があった。
オタと出会うことがなかったら美しいプラハの観光も、チェコ人との交流もなかったかもしれない。
オタに会うまでに2回ほどチェコ人に会ったが、
「歩いてプラハまで行くのか?頭おかしいんじゃないか。」
というような反応をしたり、
「それはよくない!」
ときっぱり僕のやっていることを否定する人もあった。
同じスラヴ人でも南と西ではこんなに違うんだなぁとびっくりしたものだ。そして自分が肌は白くなく髪の毛も黒いことから北に行くと自分は外人だという認識が強かった。
ちなみにセルビアとかトルコはそうじゃないのである。
でもオタは人間観察なるものが好きな人で、それは接していてよく分かった。
時々、僕を試すのだ。でも僕はそのまま踊り続けた。自分のことを試すようなオタは好きじゃなかったが、それは見てみぬ振りをした。なぜならそこを問題にしたらマケドニアのイゴールの時のようにせっかくの仲が壊れてしまうからだ。
結局僕はオタを前には一対一の親友というよりはオタを慕う後輩になって終始した。
それはこっちとしてはあまり嬉しくなかった。オタは7歳くらい年上で結婚して家族もつくっているが、僕は自分が彼より小柄でみずぼらしい旅人であるからといって一対一の関係を持ちたかったのだ。
でも彼は僕の相手をしてくれるし、食事も出すし、時には外出した時は金だって出す。だから“与えている”のは自分だという意識が彼にはあったと思う。
ちなみに僕の方は人との出会いの時(西側世界)食事はほとんど楽しまないのだ。
トルコ人やセルビア人の場合は異なるが、西側で人に会うときはほとんどそうだ。ほぼ100%付き合いのつもりで食べている。神経を代わりにどこに遣っているかといえば、他でもなく“交流”、主におしゃべりだ。
だが例外的に、オタを去る前の晩、レストランに連れて行ってくれた時は食事を楽しんだ。
オタは他にもバックパックをくれたりもした。彼がアメリカに行っていた時に使っていたという100Lの、自分のより大きく、替える必要はなかったのだが、差し出してくれたので有り難く頂いた。代わりというか、僕はまたオタを訪ねるように、自分が書いていた旅の記録(日記等)2冊を彼に預かってもらうことにした。
オタとの出会いは西側世界に帰ってきてからの最初の深い交流だったのでその意味はすごく大きい。
ヨーロッパに引き返すという決断にどうも迷いがあったのは西側世界に戻ることに対する抵抗だったかもしれない。僕はたしかにセルビア人によってボロボロだった内面が癒され、トルコ人のひとなつこさにそしてイスラームに精神的に救われていた。そして日本まで歩いて帰るというスイス出発から8ヶ月抱いていた確かな意識は、「ヨーロッパに引き返す」 という無難な選択肢によってたやすく撤回されるべきではなかったのだ。
だがもちろんオーストリアに入った頃、知っている世界に対して安心感に浸った自分もいる。しかし2008年西側を旅した自分は2007年の自分には負けているなとそう感じたことが多かった。西側のゴミの豊かさは、「不食」に向き合うべき人間には甘えだと思った。これまで自分はセルビアやトルコにいたから元気になれたのであってもし西側の冷徹な人間の中に戻ったら自分も元に戻ってしまうかもしれないとも思った。
しかし… 色々考えてみてもはじまらない。
今自分はチェコにいるのであり、ついこの前ヨーロッパ北回りをすると決めたばかりなのだっ。そうして僕は、オタを去った後アウシュビッツを目指してポーランドに入った。8月17日のことだ。
アウシュビッツ、ナチスのユダヤ人収容キャンプの跡を訪ねたいというのはほとんどそれだけがポーランドを訪ねたい理由だった。だが自分はまだ何も調べていなかった。
アウシュビッツが広いポーランドのどこにあるのかすらも知らなかったのだ。でも希望的認識によってナチスの支配下にあったところだからドイツ寄りだろうと勝手に思い込んでいた。
ポーランドに入ってから人に聞いてみた。
チェコで会ったポーランド人のサイクリストが言うには“誰でも知っている”アウシュビッツが、人に聞いても
「分からない」
「知らない」
との返事3回、ようやく“オシュビエンチム”という名前をゲットした僕は、ガソリンスタンドのロードマップで場所を確認、唖然とした。
これからドイツ、オランダと進みたいのにそのオシュビエンチムはその真逆方向、東南東に250kmものところにあるのだ。
「うぅ…」
さすがにうなってしまった。
行くか?
行かないか?
しかしポーランドと言えばアウシュビッツへ、と思っていた自分が、ここで妥協したらどんどんあまあまになってしまう…!真冬までには大西洋の温風が吹くフランスまで行きたいと思っていたがその希望は諦め、アウシュビッツを目指すことにした。
しかしこの頃、また精神的に低迷していた。オタとの出会いを最大限生かすためいつわりの自分を演じつづけていた精神的な代償や、まるでただの浮浪者でしかないポーランドでの自分は、肯定感に乏しかった。それにしてもだが、最初のポーランド人は冷たかった。そしてポーランドの大地もどことなく寂しかった。
セルビアと違って、色白で金髪の多いポーランド人の中で自分は明らかに“浮く”のだ。
「落ち着かない。」
変な人に目を付けられるかもしれないという不安とたたかった。
8月22日、とうとうまた失望に落ちてしまった。
「あぁ、だめだ。歩く気がしない。進む気がしない…。」
力なく主要道を外れ、原っぱと茂みの間を抜ける草の道にマットを敷いて大の字に寝そべった。
「どうしよう。」
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