『ヨーロッパ北回り(チェコ、ポーランド、ドイツ、オランダ、ベルギー、そしてフランス(パリ)を回る)に出よう。』
そう思い立った。時間がほしい。
これからはゴミも豊か(誘惑がある)緊張感もなくなりやすい西側諸国の旅になるが、スイスにはまだ帰れない。「不食」思想の追究が「試合」だとすれば決着がつくまで日本には帰らない方がいい。今となってはそれなりの旅を達成した自分だが、ここはまだ折れるところじゃない、そんな風に思っていた気がする。
そうして自らをゴミの豊かなドイツから追い出すようにPassauへもどり、最短ルートでチェコへ向けて北上した。
ドイツでも、例のHoferによって食欲に火がついた僕はよくゴミをあさった。ドイツに入ったばかりの日、Passauの中心街手前で僕にとっては懐かしいEDEKAという、ドイツのスーパーのコンテナから6つも8つも賞味期限切れのポテトチップスが見つかり、Passauを流れるInn川の公園で舌が塩で痛くなるまで食べたのを覚えている。
確かそこにあった3、4種類のポテトチップスのうち、全種類から1つずつと、まだバックに入りそうだったのでさらに1つ2つ好みのものをバックに詰めた。とてもすべて食べられなくて、持っていると意識ばかり邪魔されるのでPassauを過ぎたバス停のゴミ箱に捨てた。
そしてドイツでのゴミあさりに関して言えばその次Passauに戻ってきた時にはなんと、寿司を食べた。
早朝で、まだ人もほとんどいない町を通っていくと学生の寮みたいなところ(ドイツ語で書いてあった名前は忘れてしまった)のコンテナから、一日期限の過ぎた密封の寿司(パック商品)が3つくらい見つかった。
「まさか、こんなものがまた(生きているうちに)食べられるとは思っていなかったよな。」
とPassau中心の近代的な広い公園で、一人しんみりと感慨に耽ったのを思い出す。
その朝はみだらにケバブサンドイッチの路上販売店のくずかごから、食べかけのケバブを取ったりもした。
チェコを目指してからは気持ちが変わった。町を出てからだが、また例の闘志がむくむくと湧いた。Passauからは大きな町はなく、田舎になる。最後Freyungというところではまたスーパーのゴミをとったが、気持ち自体は、引き締まっていた。
「こうでなくちゃだめだ。」 そう実感した。
(しばらく「不食」から離れて旅の話を進めてきた。
旅の話が一通り終わったらより本格的に「不食」を取り扱いたいと思っている。でもその時旅の話があるのとないのとではたいへんな差になる気がするのでこの調子で行きたいと思う。私の気持ちや、食事との向き合い、旅とのスタンスなど細部に注意して読んでいただきたい。するとよりスムーズに「不食」の信憑性が示せるのではないかと期待している。)
そうしてプラハ目指して邁進した。
7月26日、プラハ60kmほど手前で日も西に傾いていたころホンダのオフロードワゴンが止まってカウボーイ風の帽子を被った33歳のパパが声を掛けてくれた。それから実に8月10日までの2週間以上を交流することになるオタだ。
彼は他に2人若者を連れていた。レクレーションか何かの帰りだったようだ。
「プラハまで。」
という話で乗せてもらった。スロバキアからオーストリアのSt.Poeltenへのヒッチで後悔をしていた自分だが、この時は先に進むことより出会いを大切にする気持ちで、オタの誘いを買った。
オタはまたそれまでには会っていないタイプ、知的な人だったが、なんでも気兼ねなく話せる人だった。
そんな人と僕は話が盛り上がらないわけがない。そしてオタは実は合計一年半ほどアメリカのインディアンの子孫と交流があった人で、英語も十分に話せた。僕はこの頃にはより大胆にもなっていて、プラハに着くまでの間に自分が「無銭」で旅していることを告白した。
プラハが近づくと
「腹減っているか。」
とオタは聞くので
「うん。」
と丁重に返事をし、僕らはプラハのKFC(ケンタッキー・フライドチキン)に入った。
僕はプラハまでの30分か45分くらいの車の中で以前に増して戸惑いなく自分の話をしたので乗っていた若者のうち女の子の方は当惑気味になっていた。
「オタ、こんな人とかかわって大丈夫かしら…」
僕自身を前に当惑しながらも、そんなことを思っていそうな彼女だった。
「無理もない。」 どこかみずぼらしくて、ヨーロッパ人の顔をして出身が日本という極東で、一年半無銭で旅をしつつなお「不食」という思想を持っている男。
僕はその女性を前に十分な配慮をしなかったと言えばいなめない。しかし心のどこかで僕はもっとありのままに、大胆にも自己表現していかなくちゃだめだという気持ちがあった。なにしろそれほどに「不食」などが生きるテーマになっていたからだ。
そしてオタというオープンな人間に出会った、このチャンス。僕はその女性を配慮することで彼女にも無難に好かれるよりも、オタを前に自己を打ち出す、その方がはるかに重要だと思った。
KFCを出るとオタは僕を自分の家に来るかと言った。僕は誘いに乗った。
オタの家はプラハから北に150kmも離れていて、妻と2才の息子を迎えにいった後、Tomという別れずに残った15才の少年含めた5人でオタの家に向かった。
オタは会社の人材管理の部署で働いていて、仕事は会社員の相談を受けたりサポートをすることだと言っていた。会社員の個性に合わせて、何が向いていて何が向いていないかなどの心理テストもするのだそうだ。それだけに懐が深いなとたしかに感じた。
しかし彼自身は僕に対してどうであるかというと少し距離があった。まあ初対面の人間に、当然といえば当然だろう。車の中でも家に着いてからも僕らはいっぱい話し込んだ。オタの奥さんはほとんど英語を話せず、僕らの会話が気になると見えた。
オタは何日かいなよ、と言ってくれたが、僕には1つ違うアイデアが浮かんできた。この出会いの喜びを断食のために転化しよう。
「この自分で断食に入りたい」、そう思った。
7月28日オタと出会って3日後、僕は近くの山に入った。
テントについてちょっと説明をする。みずぼらしい旅人でいることに抵抗を感じ始め、西側諸国に入る頃から服や荷物の見栄えをよくしていた僕は、「夜も安心して寝られるテントを」と思って、セルビアを去る頃から少しずつ自分でテントを作っていった。だから最低限の構造はできていた。
材料は、イタリアの工事現場からもらってきた防水シートと、イスタンブール時代に購入した強めのゴムシート、糸は、もともと裁縫道具は持っていたが、ギリシャでとある廃屋で見つけた太糸を使って針で縫ってつくった。
オタには一冊、インディアンについての本を借りて、山に入っていた間よく読んだ。
しかしこの断食はまたもや失敗した。2回チャレンジしたが、何もない山の中でも2日か2日半経つと我慢できなくなってLiberecという町へ降りていって食べ物を探した。
8月の6日までねばった。しかし、どうもできないと分かると、予定より4日くらい早くオタを訪ねた。
オタには12日くらい断食して8月10日に戻ってくると約束をしていたが、もう無理だと思った僕は5日に山を降り、6日にオタの家まで戻った。
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