オシュビエンチムを去ってからは急いだ。「スイス、スイス」と連呼しながら。
アウシュビッツの見学が8月26日、そこからBratislavaとWienを目指し南下、30日にはスロバキアに再入国した。
ヨーロッパの夏は短いので温かいうちに少しでも進んでおこうと思ってスロバキアも毎日毎日朝から晩まで歩いた。
そして9月11日にはオーストリアに入国。この時の10日余りのスロバキアでも出会いはあったが取り立てて話すほどでもないので省略したいと思う。
9月12日、しゃれた車に乗ったトルコ人が車を止め、SchwechatというWien手前の町まで20~30km乗せてくれた。この人が別れ際、車に乗っている連れに隠すようにしてさっと10ユーロをくれた。
そのお金で僕は、翌日、インターネットを訪問。
日本の妹から、家族を代表してメールが入っていた。9月4日となっている。次のような内容だった。
―「伝えなければならないことがあります。スイスの親戚ですが、ともちゃんがスイスに戻っても、また前のようにベッドや仕事探しのチャンスを提供するつもりはないと言っています。ともちゃんが昨年(2007年)スイスを発ってからそう決めていたそうです。でも!親戚の元にはお金が用意してあります。そのお金を使って日本に帰ることができます!」―
そしてその最もお世話になったおばは癌が再発しているということもどこからか聞いていた。
「スイスの親戚は、頼れない。」
そうあえて聞かされたことが、僕の士気をくじいた。それまで順調にスイス目指して進んできていた僕はここでまたひどく考えさせられることになる:
「スイスには向かえる先は2つあった。親戚と昨年世話になったトローラー農場だが、親戚はなくなった。」
トローラー農場には2度目ギバラツを訪れたとき手に入ったお金で手紙を出していた。
「9月頃スイスに戻ります。またできれば会いたいです。もし助手がいなければまた働かせてください!」
そんなことを軽い調子で書いた。そして後にチェコポーランドなど周ったことで遅れていた自分は
「10月中旬か下旬になります」
と、遅れる旨をたしかまた手紙で知らせた。
しかしそうと知った僕はスイスに帰る気が一気になくなった。
もう一度トルコ方面へ出直すことも本気で考え始めた。
9/13日に妹のメールを読んでから実に10日以上、進路を南に変えスロベニア国境近くに至るまで悩みに悩んだ。
妹の知らせを受けていなかったら、あるいはインターネットを訪ねなかったら、オーストリアから中央スイスまでの800~900kmもなんでもなくこなしただろう。そしてスイスに着いて親戚の拒否を経験しても大して傷つくこともなかっただろう。
というのも、スイスに戻ってもスイスの親戚のところにはいられないくらいのことは「自分でも」十分仮定していたのだ。イスタンブールからヨーロッパに引き返すとしたのは第一に命を粗末にしないという考えと、時間が欲しいためであった。
そうしてもしかしたらスイスに戻る頃には仕事をしてお金を稼ぐ気力もあるかもしれない。そんな思いからトローラー農場には前もって連絡を入れたのだ。
不意にも親戚の拒否を知った僕はだが、スイスに戻るとすれば宛は唯一トローラー農場、という、動機の低さに悩んだ。自分のことをどう思っているかも分からないトローラー農場だけを期待して、スイスに帰るのか?!
それとも…親の用意してくれたお金を使って、日本に帰るために、スイスに帰る、か?!
後者の、日本に帰るためだけにスイスまで歩く気はしなかった。
日本に帰る可能性はあっても、何か他に理由が必要だったのだ。もっと、自分のやってきたこと(旅)を肯定できる何か、が。
そんな悩みが、僕を、Wienから西ではなく南へ歩かせた。
多分にトルコを意識してである。そうして間もなく9月20日、久しぶりの日本人との出会いがあった。
自転車でグルッと東欧を旅してきた法政大学生K君だ。
ブルガリアのミチさんの時とは違って、僕は最初から興奮気味だった。理由は単純、うれしいからである。
旅に慣れるうちに、あまり畏まらない人間になっていた。
K君とは高架の下で一夜共に過ごす間に、色々なことを話した。たった一晩だが、さすが母国語だけあって、膨大な情報交換が叶う。
そして恐縮ながらも僕にとっては大変価値の高い日本語の本を2冊もらった。
どちらも大変ためになった。
それから5日後、今度は中国人の旅人に出会った。
52歳、世界100カ国を11年かけて旅してきたベテラン。李(リー)さんと言ったが、この人との出会いも印象的だ。
遠くから自転車になにやら荷物をつけた人がやってくる。近視の僕にははっきり見えず、畑から帰宅する地元人間のようにも見えた。
「いや、ちがう!」
と、手を振ると、向こうも返事をくれた。
そうして会うや、日本人とも見れなくなかったが、李は英語を少しだけ話した。
カフェに入り交流した。
そしてこの時も僕は「無銭」をためらわず告白、李は興味を持って
「2日間、君についていく。」
と言った。照れくさかった。わずか1ヶ月の間にロシアまで旅しなければならなかった彼が2日も時間を割く、というのだから。僕は拒まなかった。こっちだっていろいろ話を聞かせてもらえるかもしれない。とてもユニークな出会いだし。と、そう思った。
「無銭」を打ち明けていた僕は当然「不食」思想にも触れる。でも李は非常にゆったり、のんびりとした人であまり深いことは考えないようだった。僕は彼を前に自分のありのままを、ありのままの旅をするのが一番だったのだろうが、2人旅も初めてなことから、ついつい会話をした。
そうしてバス停のベンチなどで休憩時は自分の発明した「旅わらじ」や最初の夜は自作のテントを見せたりした。
しかし、李には、僕の好きじゃない性格があった。写真おたくなのだ。最初のカフェでも自分の持っているアルバムをドカンとテーブルに置いて写真について話をするのが好きだった。そんな彼は、なにかとカメラに収めようとする。まるでメディア取材のカメラマンみたいだ。
「もし彼が撮った写真のいくつかをEメールででも送ってくれたら、僕もうれしい…」
そう思って最初自由に撮らせていったが、やはり何事も程度だ。カメラのアングル、距離、被写体の向きなどに意識を奪われている彼とは写真を撮りながら会話は続けられない。
僕は黙って彼が撮り終えるのを待つしかないのだ。一度、スーパー裏でどんなところから食糧を手に入れるか、写真のためではなく彼に見せるためにコンテナに向かった時、振り向くと彼はカメラを構えていた。
「NO!」
冷徹に僕は拒否して、止めた。
「僕にとってこれは恥ずかしいことだ。でも理由あって仕方なくやっていることだからこの自分がゴミをあさるところを撮るのは認めない。」
そう後で説明した。1日彼と過ごした後、彼の人間性もだいぶ割り切れていった。
同じ長期の旅人でも、求めているものがすごく違う。
彼はどうも、自分の旅についてインターネット、ブログなどを通して旅の記録を発表するということに主眼があった。後日に彼のブログを訪ねてみたが、実にはなやか、コンテンツの充実したページと見えた。あいにく中国語でほとんど何も分からなかったが。
彼とはだが結局2日も一緒にいなかった。
次の日、せっかくだからと思ってどうやって自分で散髪するのかということを、ちょうど髪が伸びてきていたので、彼を前に披露することにした。
なかなか適当な場所が見つからなかったのでとあるバス停で、横の茂みの中で刈ることにした。切るのは普通のハサミを使う。櫛などは使わない。ハサミだけだ。
ハサミで切れる最も短い髪の長さ1mm~2mmで頭全体をできる限り満遍なく切っていく。
当然難しいのは鏡でも見えない後頭部の散髪だが、これも神経を集中して手の感触で刈る。早くても30分はかかるだろうか。
でも一度刈れば、4ヶ月くらい髪では悩まない。
最初の一週間は、髪が伸びてくるまで帽子などで頭を隠すようにするが、それが過ぎれば、散髪の跡はほとんど目立たない。そして何より、坊主頭は衛生的で手入れも楽なのだ。
それで彼を前に髪を切りはじめた僕だが、切った髪がそのまま茂みの中に落ちるように茂みの中で切り始めたのだが、早速彼はカメラを取り出した。
僕の切っていく様子を写真にとっていく。しかしそこで李は
「バス停のベンチでやりなよ。その方がやりやすいよ。」
と注文を出した。そのベンチはもろに走ってくる車に対して丸見えで、しかも自分で髪を切るなんて変わったことを公共の場ではしたくない。バス停だって汚れることになる。
そして第一、僕は僕のいいように髪を切る。
しかしどうもカメラ映りが不満だったのだろう、李は了解せずにもう一度同じ注文を出してきた。
(あぁ。もういいや、めんどくせぇ。)
僕はそう思ってもう一切サービスなんかしてやらないことにした。散髪を中断し、帽子を被りなおし、
「もうおしまい。」
と李に言った。彼はどうも理解しない様子。
「あなたはここから旅を続ける。僕もGraz(オーストリア南の都市)方面へ引き返す。」
彼は落ち着いた様子で
「まあ散髪くらい終わらせなよ。」
と言うが、
「これはいつだってつづけられる。」
と僕は返答した。李は何も言わなかった。
僕は李に、
「きっと僕はあなたに人は食べなくても生きられるというメッセージを届けるために出会ったんだ。」
と言った。「僕はあなたの踊り子ではないのだ」 というようなこともどこかで言った気がする。
十一年半世界を旅してきたといっても興味関心の違いから、この人から得られるものはそんなないなとその頃までには分かっていた。そうして別れ別れになった。僕の写真はブログには載せないでと最後に確認したが、実際はどうだろう、面倒くさくてまだ調べていない…。
0 件のコメント:
コメントを投稿