2009年12月26日土曜日

『今できる不食総括』 20

◆セルビア農村 再訪問

 前述のとおり、僕はたいへんお世話になったギバラツという村を無断で去っている。  
 ギバラツとの出会いがなければパスポート問題をクリアできなかった可能性は非常に高い。するとギバラツなくては旅もくそもないと言える。
 2007年8月からの10年間、望めば日本を出ていられる、旅ができる、そのようになったのは他でもなくドラガンという人物の助けがあったからだ。
 ギバラツを去ってからは罪悪感も大きかった。
 日本でどうしようもなくて世界へ飛び出したのにセルビアでもだめだったら一体、どこなら大丈夫なのか!?
 自己嫌悪もひどく、まだ「不食」との出会いをにくむ気持ちがあった。
 それは一種の賭けだったかもしれない。
 厳格な宗教と共に育っている僕は人一倍「神」とか「創造主」、「宇宙」といったものを意識する人間だったが、この時もそれまでの自分の価値観では“まず(神に)ゆるされない”行為にあえて踏み出したのだ。
 目の前に起こるすべてに全存在で向き合い、もしそこに立ち現れるものが「死」であってもそれが定めなら、受け入れようじゃないか!!
 そう心に決めて自分の中での“我がまま”を通したのだ。  

 余談だが、そうするしかなかった背景には「この世に対しての失望」があった。宗教の特異な思想や理念的な教育で育った僕は、19歳、自らその宗教(その宗教の家族の中でのあり方)を否定するまで、実に清らかな世界に生きていたのだ。この世の中は美しい、とそう生きることを賛美して神様とのつながりの中に深い安堵を覚えながら生きていた。
 しかしそれが、海外を飛び回った家族の孤立した生活から、父の地元相模原に落ち着くや、事態は変わっていった。世間の影響が無視できなくなっていったのだ。
 別の言い方では、「世間に同化する必要が出てきた」。すると3年くらいして僕は一人宗教をやめることに決断する。そして見えてきた世界が… 実はひどく惨酷だった。  
 『世の中の原理はカニバリズムそのものじゃないか!!』  
 『強いものが弱いものを、食う!』  
 『強者が生き残り、さかずきを交わし、弱者は無力にどこかへ消え去る。』
 
 『こんな世界に生きていて 何がいい?』

 19頃から見えてきたそのやりきれなさ、失望は、やがて絶望となり、今になってやっと当時の思惑が言葉になる。セルビアの農村を去った後 「来るものよ、来い」と思えたのは、そういう世の中に対する失望をしていたからだ。     


 話がそれた。ともかくヨーロッパに戻るならギバラツを訪ねようという考えは自然に起こり、悩みながらも足はそっちへ向いていった。そして例のブラニミルの家に寄った後、6月上旬、ギバラツに着いた。
 お金を持っていない自分はもちろん前もって連絡もしていない。懐かしの、初めて来たときのサッカーグラウンドを通りかかった時、いつも話しかけてきたネマニャという少年が気付いて駆け寄ってきた。そして他の子供たちもどことなく顔を覚えている。
 みんな、わずか8ヶ月あまりの間にずいぶん成長していた。  
 サッカーグラウンドから公園に抜けると、遠くにサシャ(ドラガンの息子)らしき若者が他の何人かとスクーターにまたがっているのが見えた。
 僕は近づいていったがサシャは一度立ち去る。
 家に急ぎで報告しに行ったと思われた。
 そして僕が道路に出るころまでにはまた戻ってきた。サシャも足にすね毛が生えていたりしてどことなくがっちりと男らしくなっていた。  

 ビエリッチ農場(ドラガンの農場)を訪れると、家には人の気配がない。
 ちょうど牛舎の時間だったか、牛舎に行ってみると、ボジャナが「Tom!」と明るく、そしてその背後から大きくドラガンが出てきた。
 ドラガンは何も言わない。指を立てて横に振って見せたが、次の瞬間、抱きしめてくれた。マリヤはしばらくしてから僕の薄情さを文句つけていたが、しかたはなかった。そして次から次へと知人を訪ねた。
 ギバラツは初夏。この季節のギバラツを僕は知らない。民家の前に植わっている木の多くは「ヴィシュニャ」とか「トゥレシュニャ」というサクランボの木で、盛りを迎えていた。これが本当においしいのだ。僕など、まるでサルのように一日中木の上にいてもいられたかもしれない。その頃にはまた自然界の食べものも出てきて、旅が楽しい時期でもあった。
 
 村人はまた受け入れてくれた。でも信頼感や親近感が落ちていたのはたしかだ。でもどうにか僕はまだ悪者にはなっていなかった。どこかホッとした。
 しかしギバラツとの再会は僕の中で複雑な気持ちを生んだ。
 この一世紀の間に6回戦争を経験し、国際的にも孤立、経済制裁などもあっただけあって人々の生活は実に貧しい。アジアとヨーロッパの狭間で、文化、宗教、民族、そして複雑な歴史によって翻弄されてきたセルビア人は僕の中で哀れの一言で過ぎないものがある。
 ギバラツに着いて翌日だったか、畑でスロボダンという貧しい知人に会ったとき、いたたまれなくなった。
 彼の知り合いが炎天下で仕事中、とつぜん倒れて死んだのだそうだ。
 ビール好きで、自らを慰めるかのように車からビールを取り出した彼は僕にも一本くれた。僕はそのビールが味わえない。いたたまれなくなった僕はその場を去ってそのまま目の前に広がる広い畑の道をただなんともなく歩いていった。
 しばらく時間が経った。
 ふと僕の脳裏に1つのアイデアが浮かんだ。
 ―『セルビア100学校巡り』 だ。  
 今となってはセルビア語を少し話せ、旅では大人も子供も大変喜んで僕と話したがるので、セルビアをそんな形で応援できないか?!と思ったのである。その時またドラガン達が僕を受け入れて、前の年と同じように生活させてくれたとしても、ギバラツでは大したことができないのは分かっていた。やはり言葉が壁なのだ。
 でも、それまでのように旅をしながら、日本についてのプレゼンテーションとか出来れば多くの人に会えるし、言葉だってより早く身につく。そう思った。  
 僕は自分が西からの小ぎれいなお金を持っていそうな旅人でないからか、セルビアでは危険を感じなかった。そして心的な距離が人々とあまり無いのである。  

 『セルビア100学校巡り』…とても理に適っている気がした。そしてあまりのんびりしてもしょうがないと思った僕は、まもなくこの学校巡りに出た。材料も何もないがとにかく「やるしかない」という気持ちに駆られたのである。ドラガン達にそのことを伝えたのも、たしかスロボダンと別れたその晩のことだった気がする。

 決断してギバラツを去ってから3日後、僕はギバラツに引き返した。完全に衝動に任せてやってみたのだが、1校も訪ねる前に僕は断念した。(「情けない」と言えばそうなのだが、この時はそんな自分を恥じなかった。)  
 一体、自分は、何をしたいのか。
 確かに胸の内にうごめくエネルギーを正しく使いたいのだが、それがわからない。
 心の純粋なセルビア人達に自分の内に眠っていた子供の心が呼び起こされ、それが僕を精神的に救っていることまでは分かっていたのだが、いざその“子供心”を生かそうとすると、どう扱ったらいいのか分からない、そういう感じなのだ。  
 断念してギバラツに戻った後はすぐに旅を続けた。ドラガンはまた前と同じようにバナナやコーラをくれたり、この時は中国製のスニーカーと1,000ディナラ(12.5ユーロ)もくれた。ドラガンを前には僕は断れなかった。

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