2009年12月26日土曜日

『今できる不食総括』 17

 そんなある日、5月8日、イゴールと彼の彼女やその妹、友達とCarl Coxのライブに行った。
 首都Skopjeでのライブで午後9時か10時くらいから深夜にかけてだ。チケットはかなり安かった。(7___、イゴールがうそをついていなければ。) Carl Coxを僕は知らなかったのだが、曲には確かに聞いたことがあるものがあった。そして下手なポップソングより鼓動を指揮されるようなテクノは、よかった。

 日付も変わった頃、僕らはだが早めにイゴールの彼女の家に帰った。次の日も仕事はあったからである。
 3時間くらい寝て、早朝のがらがらの高速をすっ飛ばして、Gostivarに戻った。僕などかなり激しく踊っていたので3時間では寝不足だった。
 5月9日、客のいないときは眠りに落ちそうだった。イゴールはそうでもなかったが。  
 この日も終わる頃だ。待ちに待った閉店時間がくると、僕らはいつものように車でGostivarの家に帰った。彼の両親はいつもパーキングの下にある小屋で寝ていてGostivarでは僕とイゴール2人きりだ。  閉店間際か、イゴールが
 「あぁ、頭痛がする…」
 と訴えていた。ライブに行った上に短時間睡眠で無理もないだろう。
 しかし彼Gostivarの家に着くまでやけにそう連呼した。不自然だった。  

 そして一日も無事終わり、ムスリム系アルバニア人が大半を占めるGostivarの肉屋で豚のベーコンを買うと家ではくつろいでそれを食べ始めた。
 僕は不食の意識もありそれほど食べない。豚は大好物だがどうもその時くつろぐ気がしなかったのだ。
 「頭が痛いってうそだな。」 
 そう思った。そのうそを見て見ぬ振りができなかった。

 イゴールはなんともくつろぎ出して陽気にベラベラしゃべっている。無理して付き合おうとするがやはり無理だった。  
 「本当は頭、いたくないでしょう…?」 
 思わず聞く。
 向こうははぐらかす。そしてまたしばらくして僕はもう一度言った。
 「I know you don't have headache...(頭が痛くないのはわかっているよ。)」
 僕は少し強引にそう言うと、
 「は?…ちょっと来い!」と外に出て行って、
 「外の空気を吸って頭を冷やせ。」
 とイゴール。
 たしかに彼の偽りのペースに不本意に合わせているうちに僕は興奮気味にはなっていたかもしれない。しかし僕はこの時くつろいでいる彼から注意を喚起した。多少provoking, 失礼ではあった。  

 図星だったか、外に出ると彼は当惑しているようだった。  
 「I have nothing against you.()」  
 冷静にそう一言。彼は沈黙。  
 イゴールには僕を前に演技をすることがたまにあった。それは取り上げるに足らないものばかりだったが、次第にその演技はこの時のように大胆になっていった。それでいい加減、僕は指摘したのだ。
 人を手なずけるのがうまい人間はよくこれをする。相手の気付かないところで偽りをふるまう。
 スイスのトローラーの主がそうだった。それも分からなくはない。人の上に立つ人間は十分に自分の支配力・権力を確認する必要があるのだ。  
 彼の偽りを取り挙げた僕はだが、彼との関係に傷を付けた。
 これまでのように気持ちよく接しあうことが難しい空気をつくってしまった。
 僕は即、こう言った。  

 "I will leave this evening... I continue traveling and I might come back some day. And you go sleeping and get back to your ordinary life from tomorrow... " (今晩「旅」を続けたいと思う…。またここにはくるかもしれない。君は寝て、明日からまた元の生活に戻ってくれ…) 

 テクノライブに連れて行ってもらった次の夜にも、自分の都合で旅を続けることにしたのは、薄情だろうか。
 毎日イゴールのお母さんが作ってくれるパイや、店の商品をただでもらいながら、店のお手伝いの話まで台無しにした僕は悪いことをしただろうか。  

 人生が、スイスからの無謀な旅立ちで終わらず、次から次へと展開し、「これは第二の人生だ」とまで意識するようになっていた自分は、第一の人生の教訓を無駄にしない、それ相応の生き方をしようと思った。
 聖書の書写などはそのたいへんな精神的糧になり、僕はますます大胆に、そして正直に行動するようになっていたのだ。かつての自分の感覚に言わせれば、このイゴールとの別れは薄情だ。道で声をかけられ、誘われてお金を一銭も出さずに毎日食べ物を頂いた。それなのに僕はある時突然旅を続けることにした…。


 これは難しい問題なので、脱線になるが、それまでの旅で変わり始めていた神経にについて話をしたいと思う。  
 前にも述べたが、僕は大学をやめてスイスに行き失敗をした頃からモノをできる限り無くす生活をした。物質的な執着をなくそうとした。そして大学の友人にもほとんど何も連絡せずに消えた僕は人間関係もなくなっていった。
 そして翌々年、自分の人生の問題、家族の問題に抜け道を見出すことができなかった僕はついに家族をも捨てる覚悟でスイスに飛んだ。  

 歩き旅に出発してからは自分にあるものはバック一つとその荷物だけである。そしてほぼ毎日例外なく見知らぬ世界に突っ込んでいく。腹が減れば木の実を食べ、体が疲れれば休む場所を探し、夜が来れば寝る場所を探す。便意をもよおせば茂みに入った。雨が来れば屋根を探した。
 他にはこれと言ってすることがないのである。
 当然、普通に社会生活をしていた者がこういうことをすると一定期間の後に我慢できなくなるだろう。
 退屈、不安、自己否定、虚無感云々出てくるからだ。
 僕自身出発して1ヵ月半くらいか、一度3日引き返している。それでもやはり旅を続けたのはそれなりにやることやり尽くしていたからだ。やはり行くしかなかったのだ。  

 2007年4月、旅に出てからセルビアまではこれと言って人との出会いがなかった。その間僕の頭中をめぐっていた考えはなにも食べ物や旅の先のことばかりではない。これと言って考えることも尽きた僕は考えることをやめた。
 考えよう、としないのだ。すると、何が起こるかと言うと、頭が勝手に色々テーマを見つけてきて実にニュートラルに思考を展開する。思考が次から次へと頭の中を流れていく、そういう感じだ。
 
 遠い過去の記憶などが無数に出てきて、それらを扱った。ある日は幼稚園時代、ある日は大学時代、ある日は特定の友達と遊んだ思い出が、という風に。
 旅Ⅰはもちろん、旅Ⅱ、旅Ⅲも僕はその新しい思考を続けていった。そして時々出会いがあり、人と一時期交流する。そしてまた一人になり、また出会いがあり、また一人になり… 
 それを幾度となく繰り返してきた。  

 するとある時、自分の人間との関わり方が変わってくるのを感じた。
 僕の場合それはヨーロッパのメンタリティや、自分は周りにとってどんな旅人であるかなどが“体感的”に分かっていって、そうして生まれる余裕が遊んでいる神経を新しいところに向けるのだ。 すると前に考えなかったこと、気付かなかったことなどに意識が向く。
 そして出会いが終わり、しばらくするとまたその自然な思考の流れの中で意識した新しいものを掘り起こし、確認し、消化してゆく。
 そしてまた出会いがあり、似たような状況が発生すると、無理なく前の例が思い出されてきて、次はまた新しい不確かな部分、分からない部分に意識が向いていく。
 ほとんど、操作を加えなくても勝手に思慮が展開されていくのだ。すると、以前の、整理型の思考ではなく興味主体の思考(とでもいうか)が人間関係の有り方を変えるのだ。
 目に留まるものが変わってゆくから、興味や関心も変わっていく。
 このイゴールの時が、その自分の変化を初めてはっきりと感じた体験だったかもしれない。ギリシャのサヴァの元で自分に何かできることはないのかと腐心した時は、まだ十分に新しい思考が生かされていなかった。

 そしてここで触れざるを得ないのは、モノを捨てること、あるいは生活をシンプルに持っていくことには相応の報いがある、ということだ。
 人はつい「…ない」、「…がない」 と言う。
 手に入るものはなんでも欲しがる傾向がある。それも良いところはあるだろうが、僕はここで逆に、捨てること、手放すことが持つ効用を指摘せざるをえない。
 何か捨てると、求めずにも何かが入ってくる、その自然の掟とも言えることについて触れずにはおれないのだ。  
 生活が極めて簡素になり、出会いの度に心を開いていた僕は、頭が機敏に働き以前と比較できないほど多くの情報を得るようになった。
 そして迷いや操作のない思考はその多量の情報を実にすばやくそして的確に処理をする。あまり一般人の思考のスピードを意識してこなかったが、おそらく、そこには雲泥の差とも言えるものがあって、却ってこっちが困るという程 だ。
 僕はまだその加速化した思考能力をうまく扱えないことが多く、未熟だ。だが、手法が分かってくればその思考スピードの差は問題なくなると思っている。こちらがスピードを落とせば良いだけの話だからだ。今は早い思考の信頼性をテストしている、まだそんな段階だ。  

 話を元に戻そう。イゴールの嘘に黙っていなかったのは、そういう演技が通用すると思わせてしまったら、お互いの関係がぎこちなくなるからだ。嘘を嘘だと言えなくなる。そしてなにより僕は偽りというものが好きじゃない。特に当時はまだ偽りを見ては黙っていられない質だった。  
 その晩、イゴールとは実に静かに別れた。彼もどこかで納得していたようだった。その真っ暗な玄関先ではまだまだいろいろ話したが、済むとリビングにもどり、僕は荷物をまとめてすぐに出発した。
 午後9時頃だったか、家を出た後は適当に北を目指し、町外れの空家にスペースを見つけて寝た。

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