2009年12月26日土曜日

『今できる不食総括』 16

 「西側人間は冷たい。」と言うと南の人間は「そうだ!そうだ!」と言う。
 そのある種の冷たさを僕もギリシャで感じた。トルコ人のように、一人にさせてくれないほどの人なつこさも考え物だが、一般ギリシャ人の無関心にはなんだかさみしい気がしたのは本当である。それがマケドニアの国境の検査員に会って早々、セルビア、トルコ辺りの人なつこさがまた出てきた。
 4月になったとはいえマケドニアに入るとまだまだ寒く、人達もあまり外は見ていなくてしばらくは黙々と一人で歩いていた。ギリシャの豊かなゴミ事情に慣れてしまった僕はマケドニアからまたひもじい思いをした。

 2009.1.16  
 この頃だったか、右腕の裏側に小さなあずき大のシミが2つ現れた。
 「ゴミから不純なものを摂ってしまったか…!、変な病気でないといいんだが…」 
 と思った。それは今日もまだあり、たしかに気になる。イスタンブール管理人時代のタバコの害が、敏感な僕の肺に負担になったのかもしれない。あるいはギリシャで断食の後に強い食欲に溺れていた時、何もない小さな村のゴミから、家庭の生ゴミを食べたことがあった。それかもしれない。先進国ではきれいな食べ物を見つけるのは難しくないが、旧ユーゴ圏や東欧地域では異なる。
 
 ヨーロッパに引き返すと決めてから頭の中にはどこかすっきりしないもやもやができていた。
 「日本まで歩いて帰る、の意思をそう簡単に曲げていいのか。」
 や、
 「管理人をあんなに早くやめてしまったのは間違いだったかもしれない。」 
 等である。ブルガリアにいた頃の方が、つらくても目的意識ははっきりとしていて迷いがなかった。 そんな僕はヨーロッパに引き返すことに意味を見出そうと思ってか、まだ寒かったマケドニアではよく聖書の書写を続けた。そして不食との向き合いも当然である。

 アルバニアに行こうと思っていた僕は、キリル文字の発祥の地と聞いていた(本当はブルガリアだと後で知った)Ohrid(マケドニアのエルサレムと言われる)を目指していたが、Bitolaに来るや聖書や断食に専念するため、旅を中断してボロ小屋にこもった。
 しかしどういうわけか全然断食が進まなかった。
 士気が低迷していた。たぶんに、何故ヨーロッパに引き返すことにしたのか辺りのもやもやした目的意識のせいだった。(今分かることには。)  
 そのBitolaという町にも実に2週間くらいいたのだが、聖書の方は良かったが、歩く気力が落ちていたこともあって気分はふさがっていた。
 2週間も経つといい加減いても立ってもいられなくなった自分は、そこからOhridまでの何もない80kmを覚悟を決めて歩き出した。ちょうどその日から気持ちよく空が開けてきれいな虹なんか出たりして勇気をふりしぼった自分を応援してくれているように感じた。

 聖書の書写はその頃までに200ページ(新約聖書の約半分)、イエスの生誕から死までを扱った4つ(?)の章を写し終えていた。イエス・キリストという存在に対して心的にうんと近づいたのは言うまでもないことだ。しかしスイス目指して前に進む気になった自分は昼間歩くことに時間を使い、聖書からは離れていった。  
 Ohridはマケドニアの南西の端にあるきれいな湖のほとりにある観光地だ。
 服もどことなく汚い、黒いゴムのぴょんぴょん突き出た履物とばかでかいリュックの僕もちゃんと観光客と見なされ、ホテルの勧誘が2、3人次から次へと着いてきて一人にさせてくれなかった。
 なので華やかな中心部をサッと過ぎると運良くコンテナーから見つけた賞味期限切れのシリアルバー(箱)などを食べながらその日のうちにも町を後にした。  
 次の日だっただろうか、この旅の中でも印象的な出来事があった。それについて少し話そう。  

 アルバニアの国境を目指してマケドニアの最後の町Struga(Ohridから15~20km西)を過ぎたころのことだ。
 マケドニアではそう見ないアウディの赤いきれいな車が道脇に止まって、おじさんが
 「乗っけてあげるよ」
 といきなり来た。ちょっと怪しさを感じてはいたが国境までならと思って乗せてもらうと、セルビア語で色々おしゃべり。(マケドニアは旧ユーゴということもあってセルビア語でも十分通じる。)
 おじさんは
 「イェビシ エドゥナ?」(セックスするか?)
 と聞いてきた。いきなりの質問に笑って
 「いやいいよ今は。」
 と断るが、諦めが悪い。
 結局国境に着くまでの5分くらいの間は十分に反対し続けた。国境まで、という話だったが、国境に着くや、
 「前で待ってるよ。」
 とおじさん。僕はマケドニアのセクションを通ってアルバニアのセクションに来たが、ここで思わぬ問題が発覚。アルバニアにはパスポートだけでは入れず、1ユーロの手数料(税金?)が必要だったのだ。
 
 “I'm sorry but I do not have money right now...”(今お金を持っていません。)

 無銭の旅人ではないような振りをして取りに行きますと言って窓口から離れた。変な顔をされたが、そうするより他に仕方がなかった。
 僕は無銭なので、ほとんどの場合、次の国に入れるかどうかは賭けになる。ブルガリアで自転車旅のミチさんからあらかじめトルコ情報を聞けたときくらいだろうか、次の国に入れると分かっていたのは…。  

 僕より先に、列に割り込んででもアルバニア側に渡っていたおじさんは僕が来ないと分かると、引き返してきた。彼に訳を説明、コソボ、セルビアにルートチェンジすると告げた。
 するとおじさんも再びマケドニア入国。 そんな変なおじさんなのだが、完全に目を付けられてしまった僕は
 「やだなー、また絡んできそうだなぁ」
 と思った。そして更に抵抗するのは却って危険な気がしたことから、再びおじさんに 「乗りな」 と誘われると仕方なく車に乗った。そうして本格化した、セックス話。
 彼は50過ぎくらいに見え、マケドニア人にしてはお金を持っていそうだったが、ホモではない。それは分かった。ただどうも僕が女とセックスすることが彼の望みにあった。僕は折れて、
 「分かった。やろう。」
 とついに返事。Strugaに戻って人の住んでいない空き家の殺風景な部屋に連れてこられた。途中精力促進のためかビールとパンを買って与えられた。
 待つこと15分。下半身はまあまあだがブスで隙っ歯の38歳の女性がにやにやと無理に笑いを浮かべながら入ってきた。
 「この人とやるのか、オレは。」 しかしやると言った以上、引き下がれない。女性は上半身から脱ぎ、パンツとブラジャーだけになり、僕は手始めに上半身だけ脱いだ。キスから、相手を感じることから始める。
 ホクロやシミのある年齢を感じさせる肉体だったが、「女」が感じられれば来るはずだと思いながらゆっくり、精神を集中して愛撫やキスをしていった。
 
 しかし、出て行って居なくなったと思ったおやじは、ドアをカチャっと静かに開けて覗いてきた。ちゃんと進んでいるのか気になったのだろう。しかしこれが2、3度続くと、さすがに邪魔になって一度女性の前で怒った。
 「No!」 
 もう何とセルビア語で言ったか覚えていないが、不快を2人を前にはっきりと示した。  

 そしてもう一度、一から女性と試みた。するとまた… 「カチャ。」  
 これには完全に頭にきて、
 「もういやだ。やらない。」
 さっさと服を着直して
 「僕は行く」
 とおじさんに告げる。おじさんはなにやら、(セックスはこうやってするんだ)と教唆せんとばかりに
 「オレがやるから見ていな。」
 というようなことを言った。
 「興味あるかお前のセックスなんか!」
 心の中で言う。おじさんとはそのままその家の外でおさらばとなった。でも心のどこかでは覗いてくれて良かったかもという気がした。
 セックスしなくて済んだからだ。  

 これは全く予期せぬ事態に瞬時で適切な判断を下す、という大変貴重な勉強にもなっていたのだが、そのことに気付くのはまだ何ヶ月も後のことだ。その当時はとにかく面白い経験ができた。こういうのがあるから旅も充実する、と喜んでいたくらいだ。
 Strugaを去ってからは、まだどこか心に緊張を抱きながらマケドニアの首都Skopje方面を目指して北上した。4月も31日のことだった。  
 そこからは一度若い警察官が20、30km乗っけてくれてすみやかに進んだ。そして5月2日頃、Gostivarという町を目前に27歳の野心家イゴールに出会った。マケドニアで一番の運命的出会いだ。

2009.1.17  
 (スイスに入国した。
 マイナス10度前後、辺りは雪世界と環境が厳しく、なかなか執筆にあたれない。昨日はもう少し書き進めたかったが結局前に進むことを優先した。今日明日にもジャックという知人と連絡を取りマーリスの元に直行か、しばらく2人旅か、決まる。
 昨日少なからず時間を割いて投函した家族への手紙にJapanと書き忘れたことに投函した直後に気付き、悔しくてかなわなかった。(2/21現在:でもちゃんと手紙は届いていた!) 何事も焦ったり無理したりするとすぐボロが出る。要反省。) 

 
 イゴールとの出会いは自分に芽生えつつある特別な力に気付く最初の切っ掛けだった。  
 キチェヴォという町から丸一日黙々と歩き続けてGostivarという町が見えてきたところだった。マケドニアは山も多く、この時は峠を一つ越えて上方から町が見えてきたのだが、とあるカーブに小さなパーキングが現れた。
 パーキングのブロック地面や建物が工事中だったりして、まだまだ小さな休憩所だったが、日も山の背に落ちて暗くなり始めたその時、店から一人の青年が出てきて声を掛けた。 
 「ん?」 
 まだ冬も過ぎて間もない頃、人に声を掛けられるのもそうないマケドニアだったが、青年はまるで知人にでも声をかけるかのように勢いよく出てきた。  

 僕はいつも道路の左端を歩いているのだが、店は右側にあり、声を掛けられると道路を渡って青年と話した。  
 また一つ話し忘れていたことがあった。申し訳ない。
 自分の眼鏡のことなのだが、実はこの頃から視力0.1に満たない裸眼で僕は旅をしている。
 眼鏡はどうしたのかということだが、去る4月下旬のBitolaにひきこもっていた時、出発時、思い切って眼鏡とそれまでの書きもの(日記)を泊まっていた廃屋に置いてきた。
 理由は一向に進まない断食と、士気の停滞していた自分を奮い立たせるためで、「不食」には視力回復の可能性も期待していた自分は、とうとう眼鏡も放棄した、というわけだ。  

 近くに寄って初めてわかる他人の表情だが、その青年がイゴール、27歳、親と手を組んで自力で丘にパーキング休憩場をひらき、成功している野心家だ。
 みずぼらしい小さな販売所から徐々に設備を整えていってその時はちゃんとしたレンガ構造の大きなキッチンと、本格的にピザが焼ける釜を備えるというところだった。  
 「来な。コーヒーの一杯でも!」 
 そう誘ってきた彼に僕は即座に
 「いやーお金は持っていないんだ…。」
 と返答。
 「No Problem.」
 と向こう。  

 時間も時間でイスとテーブルが5、6セットある小さな店内には誰もいなかった。彼はジュースを恵んでくれた。
 小柄だが背のピッと伸びた姿勢と真面目な顔つきはどこか迫力がある。英語も実に流暢でセルビア語で苦労する必要がなかった。それはギリシャのサヴァの時と似ていた。話し出したら“止まらない”。結局相当盛り上がってしまい、図々しくもコーヒーやチョコロールまでごちそうになり、閉店間際になると
 「何日かいなよ。」
 と彼は誘ってきた。オープンな人間と僕はいつもとことんまで共有を試みる。調子に乗って我を忘れることも時にあるが、僕自身が20の頃から制限を設けずになんでも話してみるようにしていたので、旅では、息が合い、更に話もできる相手となるといくらでもテーマは思い浮かんでくるのだ。
 そしてなによりイゴールの純真さと、野心的なのには相当に惹かれた。僕は喜んで彼と時間を使うことにした。  
 
 彼は一人きりで店番をやっていて、コーヒーやスナックなどでおもてなしをするのも彼一人だ。時にはミニバスから15人とか一気に客が来ても、一人で走り回って何とか店を回す。
 彼の支援をしている両親はというと、お母さんはお母さんはパイなどのスナックを早朝から毎朝焼き上げ、店に並べる。お父さんは違う仕事も掛け持ちしているので時にイゴールが外れなければならない時に一時的にお父さんが店のきりもりをする、とそんな感じだった。  

 彼に迎えられた次の日から丸一日僕は彼と過ごした。
 当然、ありとあらゆる話が持ち上がる。映画の話、女の話、日本の話、マケドニアの話、「不食」の話、真面目なものから下らないものまで何でも話した。
 しかしマケドニアから出たことがない彼は頭はいいが、はるか遠くの日本のことなどはほとんど知らない。ジャッキー・チェンのおかしな映画を見せて日本的なものを共有しようとする彼だが、ジャッキーはハリウッドの踊り子であって日本人のユーモアとはほど遠いことも彼にはあまり分かってもらえなかった。
 残念ながら日本と中国を一緒にしている人間が多いのもバルカン人の事実だ。
 そして楽しい話も大好きな彼だったが、バカ話の得意でない僕はあまり長時間彼と2人でいてもさすがに飽きてくるのだ。たとえば
 「日本のジョークを言ってよ。」
 と言われた時に、日本から離れていた僕にはまるで思い当たるものがなかった。
 日本的なジョークとはどんなものか。。。
 全然そういうことを考えていなかったのである。

 でも理想が高く、この世の中を変えてやるくらいに思っているところは2人ともそっくりで、兄妹みたいなものだった。
 そうして時間を共に過ごしているうちに客がドッと入ってきた時などはコーヒーを作ったり彼の手伝いをするようになり、さらには一夏そのカフェでイゴールの補助として働くかという話があがった。
 早くヨーロッパに引き返すべきだとBitolaで断食に失敗した後は思っていたが、せっかくの話だったので、僕は乗ることにした。しかしこう出た。 
 「始めの3ヵ月、給料はいらない。」
 イゴールとの出会いが嬉しかったし、まさにこれから急成長するのが目に見える彼の商売が見ていて興味深かったので、一緒に過ごしているだけでもいろいろ学べて有益だと思ったのだ。そして無銭で旅するのは自分の意思なのにそこで5万円か10万円か稼ぐことに興味はなかったのだ。そうして4日位が経っていただろうか、僕らは役所届けを済ましより本格的に仕事を習い始めた。セルビア語とは若干異なるマケドニア語の勉強も始めた。

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