2009年12月26日土曜日

『今できる不食総括』 11

 さて、旅の話に戻りたいと思う。
 旅Ⅰは日々当惑の連続であった。どうやって歩いたらよいか、分からない。寝るタイミングは、起きる時間は、休憩のタイミングは、道路の歩き方は、…すべてが分からないのだ。だから試行錯誤だけである。 
 イタリアに入ってから2週間くらいだろうか、ミラノを経由してBresciaを過ぎた辺りのことだ。強い自己否定に陥ったことがあった。「本当に、死ぬぞ。」 来た道を引き返し日本で熱血の塾講師になる夢を心の拠り所にし、日本に帰ろうと思ったのだ。3日間引き返した。60kmくらいだろうか。
 だが3日たつと、それまで自分が歩んできた多さに気が付いた。そしてやっぱりこんなところで中断できないっ!それは自分にとって負い目になるだけだと気付き、しずかに再び旅を続けた。 

 お金はなくても、意外と食べ物は手に入ることもこの頃分かっていった。スーパーマーケットのコンテナ、道路のパーキング、パン屋などのコンテナ、そして自然界にもちらほらとフルーツがある。イタリアという国では問題がないことも、この頃には分かっていった。6月初旬のことである。でも、食べ物はあるといって食欲を野放しにしていたのではもちろんない。自分の意識には四六時中「不食」があるのだ。
 食事の最中でさえ「不食を目指しているのに、食べるのか?」と内なる声がする。そして食欲にかなわない時は、自分はダメな奴だという自己嫌悪とたたかいにもなる。時には「不食」を考える自分に勝って「僕は食べたいから、今食べるんだっ!」と、食欲を完全肯定する時もある。そして食事によって自分を満たすことを自分に許す。純粋に許す。弱い自分に対する思いやりというようなことだ。 

 ひとつ、「不食」の思想のキーポイントを紹介すると、
 【「不食」は苦行ではない】
 ということがある。「不食」は禅寺の断食修養のように、心を落ち着けて、耐え、心身の浄化に専念する、というイメージとはまるで違うのだ。詳しくは著作を読んでもらうと分かるが、山田氏は
 「食べないことには食べる以上の喜びがある」
 と言っている。理解しがたい言葉だが、僕自身も当時理解していなかったが、もしそうであるとするならば、食べないことによって自分を苦しめるのは間違ったアプローチであると考えられる。もし山田氏の言うとおりだとすれば、「食べないことが気持ちよい」とか、「食べないことの良さ」を自分の中で発見してゆくしかないのだ。そしてそういうものが分かってくれば、体験に体験を積むうちに「食べることの良さ(効用)」より「食べないことの効用」が勝る時がやってくるのではないか。僕はそんな風に想定したのである。 
 もちろんそこまでするには、大前提、「人は食べなくても生きられる」を認めないことには何も一切が始まらない。疑いはあったとしても、「自分は食べなきゃ生きられない」より「自分は食べなくても生きられる」という思いが(望みが)強くないと一切が始まらないのだ。
 すると、更に言えることは、自分に不食を目指す理由・動機にしっかりしたものがないとチャレンジ以前の問題となる。不食という思想に対面したとき、
 『なんで?なんで食べたくないの?』
 と直感的に思う人はおそらく不食とは縁が遠い。だが、それも至極当然なことなのだ。食事という、人生の喜びを享受しない理由は、ないのだ。まして今日では飲食業界がかつてなく発達し、日本では世界中の食べ物が手に入る。楽しめるものは楽しんだらいい。 

 つい脱線してしまうが、つまり、結論すると、「不食」には真実だとしても相応の動機がなければ門は開かない。最初の門が開いても、食べなくても生きられるようになるまで無数の試練(体験的学習)があるというのに、最初の門でさえ、開くのは容易ではない。だからそれ相応の理由が必要なのだ。 
 「不食になってどうするのか。」
 「なぜ不食になりたいのか。」 
 この辺りである。だがこう思う僕もこう断言するつもりはない。
 人類にとってあまりに未開拓の分野であるし、関連書籍によれば山田氏の本を読んですぐに食べない生活に入った人もいると聞いている。僕は「不食」を知って4年が経つが、まだ連続した断食はたかだか10日だ。食べないことを目指しながら、より自然に食べなくなることを僕は目指した。食べないことのよさを見つけようというのが自分の意識することだった。でもそれは「不食」を知って、大学をやめてスイスに行った時、京都に行ったときもずっと試みていたことで、無銭の旅人になってからもなかなかそういうものは見つけられなかった。食べることの方がはるかによかった。 
 
 イタリアは全部で40日近く旅をした。初めての僕には非常に長く感じられた。早くスロベニアに入れるかどうか知りたくてしょうがなかったのを覚えている。
 スロベニア国境に着いたのは6月20日頃でスイスと日本のパスポート両方出して難なく入国した。でもスイスパスポートの期限は迫っており理想ではスイスパスポートの失効前にクロアチアに入ることだった。 
 スロベニアから旧ユーゴスラビア圏、となり、言葉や国風、人々のイメージが僕の中でまるでない。まさに未知の世界だった。スロベニアは2週間でさっと抜けたのだが、イタリアと比べて印象的だったのは食べ物の少なさだ。ゴミがガクンと減る。スロベニアは旧ユーゴの中で最も裕福な国だが、先進国の大量消費システムはあまり感じられなかった。代わりに自然界の木の実などがあった。この旅で一番おいしいいちぢくを食べたのもスロベニアだ。人々の出会いはイタリアと同じくほとんどなかった。自分が精神的に人に関わる心境じゃなかったというのもある。
 ただ一度、スポーツグラウンドで休んでいたとき遊びに来た少年達と一緒にバスケットボールをして交流したことがあった。あと一度、空腹に耐えられずにレストランの裏に何かないかと見に行った時、早朝配達のパンがあってそれをくすねたことがあった。盗みまでして旅するなんて人間のクズだと思ったが、この旅の中でごく稀にスーパーなどの裏に無防備で置いてある商品には3、4回盗みをはたらいたことがある。主にパンだが。 
 だがこのスロベニアの時はフルーツ食になっていたためか、ばちが当たってか、その盗んだパンを食べたあと激しい下痢に見舞われた。その日、夜までに5回排便した。過去で最もひどい下痢体験だった。 

 他に印象的だったのはリュブリャナを過ぎた辺りでNovo mestoという町の近くで、みずぼらしい人々の集落に遭遇したことだ。後で彼らは「ジプシー」と呼ばれる人々だということが分かったのだが、通り過ぎただけでTシャツ一枚のおちんちんぶらぶらの少年や髪の乱れた女の子などが寄り集まってきた。町に捨てられたガラクタなど集めてきて作ったような掘っ立て小屋に住んでいる彼らと自分は同類項だな、と痛感し、愛着さえ感じたのを覚えている。さすがにその時集団に突っ込んでいく勇気はなかったが…。 
 
 スロベニア最後ではパスポートのことでまた特筆すべきことがあった。実にスイスパスポートの失効が絡んでいる。旅の地図はスイスのLuganoの図書館で地図帳からコピーしたものをファイルに持っていたが、縮尺が小さく1cmが15kmくらいのもので、小さな道は載っていない。それで国際国境に着かずに地方の国境に着き、通してもらえなかった。
 「国際国境は30km南にある。」
 そう言われて引き返した2泊の間にスイスのパスポートが失効した。7月3日ごろだった。7月5日、失効直後、国際国境に近づいていたとき、道端で警察に捕まった。調べられると、スイスパスポートの失効を指摘された。
 「新しいパスポートが必要だぞ、君は。」
 しかしその時金を持っていないことを告白した。
 「なら、ちょっと国境まで行こう。」と言われてワゴンに乗せられると、車の中ではスロベニア語で警察同士盛んになにやら議論している。スロベニアは日本のパスポートでもビザは要らない国だと思うのだが、そのときはやたらと、スイスパスポートのことを問題にされた。そして僕は、スイスパスポートを失った時点で、もしクロアチアにビザが必要だったら、その時こそ「アウト」だな、と車の中で日本帰国を覚悟した。 
 ところがどうであろうか。
 警察官はクロアチア側と交渉してくれ、ツーリストとして3ヶ月は大丈夫だと聞く。日本パスポートの残りも1ヵ月ちょっとだが、大丈夫なようだ。 

 「救われたー。」その一言だけだった。 
 
 クロアチアから人が変わるのを感じた。ザグレブを過ぎて東、東とイスタンブールまで最短距離を狙って内陸クロアチアを歩いた時だ。持っていた金貨によるパスポートの発行は、リュブリャナでもザグレブでも考えてはいたが、それぞれ首都を歩いても大使館の位置情報もない。もちろん、金貨を崩せばお金が生まれ、それでインターネットカフェに入れば見つかるはずなのだが、クロアチアまでは気乗りがしなかった。セルビアに入れるなら、ベオグラードだな、と目標を設定していた。
 7月5日頃ザグレブ西からクロアチアに入り、その頃大体分かってきた自分のペースだとパスポート失効前に十分ベオグラードに着く。ベオグラードに着いてその時できる最大限のことをすべてやって無理ならば、
 一、人のいない山にでも入るか
 二、大使館(親)に連絡するか
 2つに1つだった。 
 ともかくそういう考えでクロアチアを東へ急ぐ。ザグレブから50kmくらいだろうか、とあるおじさんが古いベンツを止めて、誘ってくれた。誘うために車を止めたらエンジンがかからなくなったというポンコツベンツだ。何も後で分かったことには、ガソリンが高いから家庭用オイルで違法的に走っているのだとか。おじさん、英語もドイツ語も話さず、共有する言語を持たない僕らだったが、不思議と僕はおじさんのかもし出す雰囲気に居心地のよさを覚えていた。
 1時間半か2時間くらい揺られただろうか、100kmくらい乗せてもらい、相当時間沈黙があったにもかかわらずお互い気持ちよく別れた。 

 「ん?…なんか違うな。」これまで自分の知っている人間とは何か違う。どこか深い無意識の領域でくすぐられるものがあった。 
 このおじさんとの出会いから残りのクロアチアは大して距離もなかったが、次々と色んな人々に出会い、泊めてもらったり、ごはんを出してもらったり、休憩してきなと誘ってくれたり、すごく嬉しい出来事が立て続けに起こった。ここでは一つひとつの紹介は省くが、僕が感じたものはこの辺りから、たしかに“新しいなにか”だった。 
 クロアチアでは“ヴォチェ”という野生のプルーンのような、さくらんぼのような実が至るところにあって、それを毎日のように食し、フルーツを楽しむという日本ではなかった嗜好も芽生えていた。このフルーツは翌年、ヨーロッパに引き返す時には更に好きになる。クロアチアに入った頃からはいよいよ真夏日となり、日々たくさん歩き、汗をかいているうちに体は改造されていって、セルビアに着く頃には十代に戻ったような気分もあった。
 腰周りとお尻のボリュームが落ちたのが気持ちよかった。相当な距離を歩いたことが人々を前に説得力になるのを感じたのもこの頃で、わずかではあるが希望も出てきた。
 セルビア国境にたどり着いたのは7月19日、クロアチアに入って2週間後だった。

2009.1.10 
(午後6時過ぎ。今日は昼間何も書き進めなかった。家族への手紙を書いたが、他の時間は何をしていたのだろう…?と自分でも思うほどだ。たくさん歩いたことは確かなのだが…。歩いていたときにはまたいつになく多くの思案で充実していた。今日昼間こっちを書く気が起こらなかったのはこの執筆に疲れてきたからかもしれない。こここそ頑張りどころかもしれない。社会生活に戻る前に書き終えてしまいたいのだ。できるものなら。)

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