◆旅Ⅲ 2008年2月5日~11月11日 ―ヨーロッパに引き返す決意/寄り道1000km―
(さて、しばらく「不食」から逸れて詰まらない旅の話に時間を使ってきたが、今一度不食思想を扱ってみたいと思う。
イスタンブールまではイタリアで無銭状態になってからほとんど断食をしなかった。
断食と僕が呼んでいるのは1食とか2食抜くというのではなく丸一日何も食べないことをそう呼んでいるのだが、イスタンブールまでは断食はほとんどなかった。旅の始めは食べ物を見つけるだけで精一杯だったし、夏は自然界に木の実がたくさんあった。
その替わりに体験したのは「フルーツ食」だ。たくさん、色々な木の実を食べた。ブルーベリー、イチゴ、いちぢく、洋ナシ、リンゴ、プルーン、クルミ、アーモンド、など名前を知らないものを含めればまだ三つ、四つある。
セルビアに着く頃までには明らかに体調が改善した。日々の運動のお陰かと思ったが、それだけじゃない。消化吸収のしやすいフルーツをメインに食べるようになったことで胃腸に対する食事の負担が軽減したのだと思われる。視界のクリアさ、体の軟らかさ、軽快さ。
ワキガや虫歯の痛みなどが減ったことも印象的だった。無理して丸一日食べないようにするとリバウンドが来て真夜中に町へ出てふしだらにゴミをあさらなければ済まなかった。
だが適度に食べていると旅人としても高貴な気持ちが持て、かつ体調もよかった。
セルビアの肉ばかりの食生活で10月までにはまた日本にいた頃のような気だるい身体になってしまうが、ひもじかったブルガリアの旅でたしかに体調が戻った。
今の僕の認識だが、山田氏も本で書いていた気がする:
「食べ物は胃腸に対して負担である。」
なにもステーキとか甘いものばかりでなく野菜やお米、パンだって胃腸に対して胃腸に対しては負担であるという考え方が「不食」にはある。食べ物一切が「負担」なのだ。
これは世界が受け入れている栄養学とはまるで違う考え方がだが、こう考え始めると食事がまるで違うものとして立ち現れてくる。
僕の断食経験は高々10日だ。
「不食」を確認したとは言い切れない立場の僕だが、思想の紹介までに話を続けさせてもらおう。
食べ物を食べることによって私達がエネルギーを得ていることは確かだ。だがそれはタンパク質だとか、糖分だとかそういったものが血液に流れて体内の細胞に行き届き、ADP(?)が分解されるからではない。エネルギーを得ていると言えば味覚を刺激して食べ物を享受するところに喜びを私達は覚えるからだ。
新鮮な牛乳を使ってつくったショートケーキや、何時間も煮込んだクリームシチューがおいしいのは、私達の味覚の最も繊細な部分をほどよく刺激するからだ。味覚というのはそれだけ繊細で奥の深い感覚神経だ。触覚や視覚、嗅覚などと同じように神経は適当な刺激を受けることで快感を生む。
その快感は喜びであり、おおげさに言えば生きる喜びである。生きる喜びはすなわち生命エネルギーだ。
だから言い方を換えれば私達の身体には、いわゆる栄養学のいう
「食事の消化によるエネルギー」
は必要がない。
毎日太陽を浴びなければ死んでしまう、とか、鼻が利かないと生きられないなどということはないのと同じように、味覚も、刺激しなければ死を招くものではない。
しかし「食事」という刺激は実に快いものであるから私達は食事を大いに楽しむ。大いに楽しむが、それは楽しまなければならないということではないのだ。
そして…、楽しむことにはそれ相応の代償がある。それが胃腸への「負担」だ。
そして今はここまでにとどめておくがその負担による内臓の疲れは老いとなって体に現れるらしい、というところまで話は進んでいく。
僕の行ったフルーツ食の経験と、イスタンブールからスイスまで戻ってきた今日2009年1月までの間に学んだ「不食」思想の、自分なりの見解を少し述べてみた。
思想の面では確信のレベルに達している僕だが、もちろんまだまだ経験を深める必要がある。
たかだか10日の断食で「不食」が真実だなんて言っても誰も信じないであろう。今は今できる最高の自己表現を、と思って書いているのである。)
2009.1.15
(昨日は濃い霧と雪のため一日動かなかった。今日は夜明けの時点では快晴、また寝具を干せるかもしれない。今日しっかり歩けば明日にはスイス入国。ジャックと知人が望めば短期間一緒に旅をする。そうでなければあと10日ほど歩いて「目的地」に到着だ。)
さて、旅Ⅲの内容に入る。
一時交替のつもりでイスタンブールを出た僕はまだ見ていないトルコをと思って、川の氾濫で通れなかったEdirne方面を目指した。始めの2、3日を除き連続してトルコ人と交わった僕は車やトラック、バスに乗せられ、あっという間にEdirneに着いた。
とても忙しかった管理人生活から解放され、再び元の旅人に戻った僕はその喜びもあって断食に入る気持ちになっていた。残ったお金でまた、セルビアの時と同じようにチョコレートなど最後の買い物をすると、再びギリシャに入った。
ブルガリアにしなかったのはなんとなく暗いイメージがあったからだ。そしてギリシャに入ると同時に断食を始めた。
アメリカ人宣教師達にはキリスト教の新鮮な話を聞かせてもらっていたにもかかわらず、ちゃんとした挨拶ができず、悪かった。だが彼らの影響でいま一度新鮮な思いでキリスト教に向き合う自分がいた。
それで断食が始まるや取り組んだことは「聖書の書写」だ。
初めてギリシャに来た時利用した小さな工場の廃屋を覚えていたので、またそこに入って断食と同時にそれを始めた。
キリスト教のどこか神聖な空気に包まれたりして、一日一日は早く過ぎていった。気が向かなければ何もしなくてもよく、その解放感だけでもすごく満たされていた気がする。そしてセルビアの3ヶ月に次ぐイスタンブールでの2ヶ月という、思わぬ人生の展開に、人生に対する希望も確かに芽生えていた。
3日、4日と経つうちに内心緊張しながらも断食日数を更新していく自分に自信を持った。
7日目頃だったか、村へ水を取りに行ったとき、行く途中道に落ちていたペットボトルのヨーグルト飲料を飲んでみたりしたが食欲は湧かなかった。ただこの時は日々安静状態だったので、水を取りに出るときはバランス崩して倒れそうになったり歩くのもどこか力が入らなかった。
「やっぱり弱っているんだな」
そう思った。
めまいや急な虚弱感はなかったが、いつも通り体は動かなかった。7日か8日目、工場の裏にあったハチの飼育箱からハチミツを見つけ、食べてみたが、味覚が変化していて味があまり分からなかった。変質していたのかもしれない。味よりもねばねばした感触の方が変に感じられてつまむ程度で終わった。
11日目、もう十分だと思った僕は工場を出た。めまいや虚弱感はなかったが、心臓の鼓動が激しく毎2、3キロで十分な休憩が必要だった。
5kmくらいだろうか、道端にパーキングが現れ、そこにあった木のテーブルの上に紙袋の中になんとシミット(トルコ風)や丸いドーナツが…。
「食べよう」
有り難く、よく噛みしめて頂いた。それからは食欲が一気に復活し、ゴミ箱やコンテナがある度に何かないかとあさる自分がいたのを覚えている。
「不食」、「不食」と、食べないことばかりそれまで意識していた僕だったが、10日目の断食を経るとまるで「不食」が取るに足らない、ちっぽけなものになった。食べることに大変な喜びを認めていたのだ。
「10日断食を達成したのだからもう十分だ!」
そう思った。 それから5日後くらいだっただろうか、ちょうどAlexandropoliというエーゲ海沿岸の町に着いた時、原因不明の足のむくみが現れて、歩けなくなった。
「旅わらじ」を靴下一枚だけで履いていた自分は、ギリシャに入った時に指先の感覚が麻痺し始め、構わずにいたらとうとうAlexandropoliでむくみから痛みに変わったのだ。骨が痛むという感じでかなり焦りを覚えた。「歩けなくなったらもともこもないからな」と。
そうして町外れの放棄された民家の中に入って養生に当たった。
マッサージをしてみたり、柔軟体操をしてみたりして血が回れば回復するはずだと思った。症状が軽快し始めるまで実に2週間もの間そのボロ屋にいたが、その間はよく町に食べ物を探しに出た。痛い足を引きずりながらも「食事をした方が良いのかもしれない」と思った。
多分に断食の影響も疑ったのだ。この間は実に食欲に耽った。
まるで10日間も断食をした自分がウソのように、食べられるものは大きなバックにこれでもかというほど詰め込んで、ボロ屋に戻ってはムシャムシャとブタのように食べ耽った。
ヨーグルト、バター、チーズ、加工肉食品、固くなったフライドチキン、スプレー式生クリーム、牛乳賞味期限直後、大きなおわんに入ったチョコプリンの残り、ピザ屋のゴミからは、焦がしたピザ丸々一枚、固くなったフライドポテト、缶に傷や歪みがある密封のファンタなど食欲を満たす食べものが山ほどあった。
食事に関して非常に厳しい親に育てられた僕は人がそれほど食べ物を捨てられる神経が理解できなかった。今でも、理解できない。だから自分は自分が許せば仕事をしないで、町で捨てられるものを食べてだって十分ハッピーに生きられると思った。
化学調味料や添加物、白砂糖、動物たんぱく質が体に良くないとしてほとんど食べられなかった幼少を持つ僕は、人が捨てたものでも、汚れすぎていなければ十分に価値を感じる。
同じものを食べるために1時間自分を仕事で縛るくらいなら、僕は人の捨てたものを食べ、その1時間を別のことに充てる。 しかし2週間もの間動けずにいるとさすがに気がめいった。食べ物のために治りかけた足を酷使してでも町にゴミをあさりに行く自分が情けなかったりもした。そうしてボロ屋に引っ込んで10日目頃か、少し麻痺がひいてきて、なんとか歩けるまでになった。
完全な治癒ではなかったが、もう我慢がならなかったので勇んで旅に出発した。3月12日頃のことだった。
ヨーロッパに引き返すと決めた自分だったが、同じ道を戻るのは気が引けた。そして気持ちではまだ旅の時間が欲しかったのである。そんな自分は多少時間をかけても訪れていないバルカンの国や、東欧の地域を覗きながらスイスに戻ろうと思った。
ヨーロッパの精神的礎、聖書を書き写しながら…。
それで僕はトルコから西へギリシャを旅することにしたのである。残念ながら歩きのスピードでは最長の3ヵ月を使ってもアテネまでは届かないことが分かっていたので、テサロニキで満足しようと思った。
そうして春の気配を日々感じながら歩いていくと、3月19日40歳(前後)のマリファナ中毒者、サヴァに出会った。
それはまだだいぶ東、Kavalaという町も手前のことだった。急に業務用ワゴンを止めてくれたおじさんがいて、実に明るく声を掛けてくれた。サヴァだった。
Kavala方面に乗せてもらう予定だったが、車内で談笑しているうちに「家に来ないか」、という話に。
僕も交流を楽しんだので誘いを受け取った。
旅中ではいつも率直にどんどん話をする僕だが、この時も家に着く頃には、彼はマリファナの中毒で、一度結婚してきれいな娘さんもいるが離婚して一人暮らしをしているなど、大体の人物像も分かった。
マリファナはトルコに居たときに一度誘われて吸ったのだが、特に何も経験できず、この時も少し吸わせてもらったが幻覚などは見えなかった。
それはさておきなるほどこの人物には薬物常用者ならではの落ち着きのなさが見られたが、普通に接している範囲では問題は意識しなかった。実に温かく、そして優しく接してくれたのだ。薬物に溺れながらも、本人はそれを隠さないというし、心は純粋な人だということも分かった。
薬物乱用者には「優しい」人が多い気がするのは気のせいだろうか…。
僕は彼と8泊9日共に過ごした。
どこか寂しがりやで、僕は良きパートナーでもあったかもしれない。サヴァは2人ほど彼の親友のところに遊びに連れていってくれたり、古代の遺跡見学や僕一人だったらまず有り得なかった、Kavalaのきれいなギリシャらしい観光地を案内してくれた。
彼の家族の話を聞くと、気の毒な話が多かった。
妹さんとは嫌い合っているとか、かつてはたくさん財産があったが、家族内の揉め事で売り払ってしまった(牛数十頭、土地、など)とか、更には僕が訪れた当時、隣に住んでいる彼の母が糖尿病と診断を受けて厳しい食事制限をしているなど、聞き出せばきりがないほど色々あった。
僕はどうも何かしてあげたい気持ちに駆られた。
でも、一体この自分に何ができるというのだろう? 答えがなかった。
40くらいで世代も違うけれどただただすごく心が通じることがなんだか切なかった。そして金もなければギリシャを旅していても名所を観光したり、ちょっとした挨拶のギリシャ語を知らなかった僕はそんな自分を恥じた。
サヴァの一人の友人と食事をした時は、ギリシャは今回は北しか見ないと告げると、
「島に行かなきゃあ、ギリシャは見ていないも同然だよ~」
と言われてしまったこともあった。だから何気なく、しっかり準備をしてまたギリシャに行きたい気もしている。
サヴァに連れられてKavalaやThessalonikiを見た僕は、彼の村からはすぐにマケドニア目指して歩いた。マケドニア国境に着いたのは3月31日、ギリシャに入ってから実に45日が経っていた。
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