2009年12月26日土曜日

『自称卒業論文』 6

11.12.04
 私は母には打ち解けやすい。母は母でやりにくいところはあるが。 私は時たま実家に帰るたび、G塾に関してたくさん話してきた。塾の特異なところ、彼女にとっては耳が痛いだろうことも打ち明けてきた。(私は、母にくらべ父にはあまり話さない。彼とは建設的な会話が出来ないからだ)
 母にはまだ、話によって気持ちを伝えうる余地がある。がんばれば…。11月末、実家に暮らすようになってから、たびたび母にはこういう話をしてきた。 その一つの内容から入ろうと思う。
 
 3年前、私は実家を出て一人暮らしを始め、この社会の一員として人々と接したり、先生として生徒と接したり、またあるときは学生として人々と接してきた。 その中で、 『いつも自分の立場をわきまえて人々と接する』 (当たり前のように思われるかもしれないが、これを徹底することで私は大きく変わった) というやり方を学んだ。
 これはいつ何時、自分の身に何が起ころうと、(こう言うと特別な事態を連想させがちであるが、そうではなくて、どんな些細なことでも大きなことでも)「自分らしく(立場をわきまえ)」、周囲(他人)を考慮に入れ、行動する、というものだ。 今からすれば、これに気づく以前の自分は、ハーフとか、外国生活の貴重な体験を持っているとか、そういう特別な自分自身に「酔っている」面があって、思い上がりもあった。この日本の平均的な人に比べれば私は、能力的にも恵まれ、色々な面で「得意」になるのは自然な流れだったと思う。でもやはり、認識の共有ができるのは狭い身内に限られ、そのために庶民の人々と認識の共有が難しかったことはいつも心のどこかで気懸かり(悩み)だった。
 学校などで集団の中で私が浮いていたりしたのは、もちろん居心地のよいものじゃなかった。 なぜ自分は日本の一般的な若者と打ち解けることができないのか。それが、なにげに、私にとって最も気掛かりなことであっただけに、それに取り組んだことが、私の大学生活の主な中身になる。
 話がそれかけたので戻す。 そのように自分が変わり、その新しい自分は、自分の意見や思惑を、昔よりはるかにうまく、そしてなにより自然に伝えることができるようになった。自分の考えが正確に、また冷静に述べられるようになったのだが、何がそれを可能にしたのか。それは、実家から開放されたことにあったと思う。

 実家を出ると、そこには人々との関係の中に、G塾にはない 「ゆとり」 があった。(これは無意識の世界での学習であって、(自分の価値観を根底から改める作業といってもいい)今になって言葉にしてみれば、こういうことかな、ということだ。)大学でも、塾で生徒と接していても、他の先生が生徒と接しているのを見ていても、そこにはあくまで相手の立場を尊重する姿勢があった。
 自分の思惑を、相手にできるだけ直接伝える:分からないことは『分からない』、あるいは、『分からないから教えて』、と、正直に出る。特に塾の生徒と接しているときは、そこはそれまでしがちだった遠まわしな表現やほのめかしが全く通用しない世界だった。
 私はそんな外の世界で、戸惑いや混乱を抱きながら、内面を自己改良して、自分の独自の人間関係の持ち方を開発した。したと言うともう完成したかののような響きだが、そうではなくて、これから改良を加え、より確かな、完成度の高いものにしていかなければならない。
 重要なのは、先入観でない裸の認識に基づいた判断によって「新感覚」を養ったことだ。それは、G塾では養い得ない素質を育むことのできる土台が出来たということでもある。そういう意味では今私は、「無限」を感じている。何をやってもよい。何でもできる。
 私はG塾にいた時は、その『ゆとり』を知らなかった。無意識に、次から次へと「動く」、「考える」、疲れて初めて、「休む」。頭で考えていることが先で、心や体は、それに酷使される状態だった。これは進行すると、精神的に非常な負担となる。私も自分を殺したくなる夢までなら、見ていたことがある。

 今であるから、それは心の不安が引き起こす焦燥感であり、それによって駆り立てられていたということが分かるのだが、当時はそうずばり言われたとしてもまず納得しなかっただろう。自分でしか自分が気づくことでしか変えられないものというのはある。他人にはどうにもできないところというのはある。 (そういうのは大体、他人は他人で、責任を負えないのであるから、手を出さないでそっとしておいてあげるのが賢明だ。放っておいたことによって事態が悪化しても、最悪その当人が自殺に踏み切ってしまったとしても、それに他人の責任は。この世にはそういう「厳しさ」はあると思う。)

 そういう焦燥感的な雰囲気、言い方を換えれば『ゆとり』の欠如、が今でもG塾にはある。 先日、私はそのことを、母に何とか伝えることができた。 母はしばらく黙って、
 「そうね。そういう余裕も必要よね。」
 と一言言った。思慮深い表情を浮かべたが、なんとなく理解してもらえたようだった。 しかしそれから数日たった今、母は彼女のいる空間には、相変わらず、焦らなければならない雰囲気を出している。直接でない、遠まわしな言い方(お前はこうやるべきだろ!)で、相手に罪悪感を負わせる(ああ、私がやれば事は済むんだ、やらなければ!)、それによって他人は動く、という昔のままのスタイルである。最近はこれまでにいないG塾になじんだ塾生がいたり、女の子が増えたりしたことで、昔よりは雰囲気が和らいでいるものの、基本的なところは変わっていない。Voluntaryではなく、obligatoryである。
 母はしばらく黙った後、こんなお話を聞かせてくれた: まだ一番上の兄しかいないときだったそうだ。
 兄はベットで寝ていた。母は風邪をひいてしまったらしい。父は仕事から帰ってくると、「疲れた」と言い残してベットに入ってしまったらしい。母も兄のこともかまわず。そのとき母は心にあることを刻んだ:  
 『私は、この人と一緒では、病気になってはいけない。しっかりしなければ。』
 きっと母はそれから今日まで、基本的にはそういう姿勢で家族と向き合ってきた。自分が夫の分までがんばる、というような意気込みだ。母は、自分と夫との関係より、子供との関係を重視した。子育てに専念した。そして5人を育て、今は他人の子供まで見ている。

 私は、今、前述したように、国際結婚の重大な責任を負えていない両親を非難する見方があるため、母に対してそういう母の努力にはあまり目を向けず、そもそも結婚したことに無理があった、と二人の結婚自体を否定している。生まれてしまった私はマイベストを尽くすに尽きるが。(私は今、無責任な結婚は「逃げ」であり、不幸な子供をつくることになるとし、自分が変わり、自分が経験したような苦しみのない平和な家族をつくれるという自信が生まれないかぎり、結婚はしたくないと思っている。責任がおえないから。)

1 件のコメント:

  1. ⚫以下に、今日、2025年4月、42歳にして思うことを書きます。:
     
     (全般的に、)実にいい。
     『小川家出身の変わり者』、から、『日本の世間一般に通用する人間』への成長、『世間一般の若者と、なぜ自分は打ち解けることができないか』、という若い頃の私の、最大の悩み、そして当時既に、《ゆとりの欠如》とか《焦燥人間》という、自分の致命的な性質に、意識が及んでいるのはすごい。生憎、本当の意味で自分を愛せるようになるのは、家族と絶縁してヨーロッパに渡った、29歳(2011年)以降だと思うが…。
     
    〉重要なのは、先入観でない裸の認識に基づいた判断によって「新感覚」を養ったことだ。
     ✵なかなか人は、自分を信じて、“裸の認識”を鍛えていく…、ということができないのではないか。
     自分がそれができたことは、「類稀な才能」であり、幸せなことだ…。
     

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